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人は、生まれるときもひとり。そして、死ぬときもひとり。

たとえ、誕生を歓迎してくれる両親がいたとしても、死を看取ってくれる家族がいたとしても。
 

でも、人生は自分以外の誰かがいてこそ意味があるし、学びもあります。

というより他人という存在があって、対比しなければ、自分という存在を正しく認識できないものです。
 

それでも、
 

自分自身が人生の創造主として生きようとしたとき、

自分の本質、真我に向かい合おうとするとき、
 

人は孤独にならざるを得ないのだとも思う。
 

自分に向かい合わないで、自分自身に軸を立てないで仲間を求めても、

それは、その場しのぎの空虚なものでしかないとも思う。
 

人の意識は変化するし、成長するもの。

だから、人生に出逢いがあり、別れがあるのは当然というより必然として起こる。
 

一期一会という言葉もありますが、

人の関係性には、永遠などという言葉はなく、有限性があるからこそ尊いもの。

金子みすゞさんの詩に『こだまでしょうか』というものがあります。

東日本大震災のときにCMで頻繁に流れていたので、耳に残っている方も多いのではないかと思います。
 

 「遊ぼう」っていうと

 「遊ぼう」っていう。

 「馬鹿」っていうと

 「馬鹿」っていう。

 「もう遊ばない」っていうと

 「もう遊ばない」っていう。

  そして、あとで

  さみしくなって、

 「ごめんね」っていうと

 「ごめんね」っていう。

  こだまでしょうか、

  いいえ、誰でも。
 

最近、この詩のことを思い出して、改めて読んだとき、

「遊ぶ」ということが、人生における人間関係全てを表しているように感じました。
 

自分自身と、とことん向き合い、本質に近づけば近づくほど、出逢う相手との純度や密度も高まってくるものです。
 

今まで、遊んでいた人とは遊ばなくなって、新たな出会いがあり、その人と遊ぶようになる。

もしかしたら「もう遊ばない」って言った人とまた遊ぶこともあるかもしれません。
 

人の縁は、繋がったり、離れたりを繰り返していくもの。

「仲間」というものは、その一瞬そのときを共に過ごす人たちですが、その関係性に絶対とか永遠はないものです。
 

だからこそ、いまここを共に生きれることが有り難いし、尊いものなのだと思う。
 

そして、依存ではなく、個、自分の柱をしっかり立ててこそ、より密度の濃い関係性でいられるのだとも思う。 
 

本当に遊びたい人と遊ぶには、より自分自身の本質に近づくしかない。

それには、とことん自分自身と向き合うという孤独を受け入れる必要もあります。 

『ワンネス』というのは、、、

すべてはひとつということですが、自分自身の本質と向き合いきった先にあるものなのかなと思います。
 

そして、そのすべてはひとつという感覚は、スローガンのように掲げても、決して得られるものではないとも思う。
 

この世界は自分自身が創造主。

だから、自分自身を通してしか世界を観ることはできない。
 

もう国とか社会のせいとか言っている場合ではないし、人生は究極の自己責任だと本当に思います。
 

私はいま本当に遊びたいと思う人と遊んでいるし、そうでない人とは遊んでいません。
 

その中で、いまここを大切にして、「たましい」の「たま」を磨いています。

この先、また袂を分かつ人がいるかもしれないし、長くつながっている人もいるかもしれません。
 

依存ではなくて、お互いを高め合うような関係で長くお付き合いできる人がいれば、それは深い縁なのでしょう。 

でも、こればかりは、どうなるのか分からないし、分かる必要もないとも思う。
 

大切なのは、過去でも未来でもなく、いまここをどう生きるか。

だから、いまここで本当に遊びたい人に『遊ぼう』って言います。