幼い頃は、身体も弱く、人見知りで、泣き虫でした。

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食も細かったので、

『残さず食べるように』

と、よく父に言われていました。
 

それが嫌だったので、食事は苦痛な時間。
 

幼稚園でも、ガキ大将には、よくからかわれて泣いていましたね(笑)

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小学3年生で野球を始めてからは、これらの状況も変わりました。
 

身体も小さくて、いつも前の方だったのですが、

5年生くらいからは急激に背も伸び始めて、段々と後ろの方になっていったのです。
 

しかし、同時にある劣等感を抱えるようにもなりました。

学校に行くと、そのことで同級生にからかわれる毎日。
 

胸を痛めていました。
 

表向きはできるだけ普通に振る舞ってはいましたが、徐々に自信を無くしていき、自分のことが大嫌いになっていきました。

『そんな自分を変えたい』

と思ったのが中学校生活も終わりに近づいたときです。
 

高校に入ると、それまで続けていた野球を辞めて、ひたすら自分と向かい合うかのように身体を鍛える毎日。
 

そして、小中学校の同級生とも、ほとんど会わないようにもしていました。

まるで、それまでの自分を振り切るかのようでしたね(笑)
 

高校では普通にクラスメートと付き合っていましたが、それ以外の付き合いはほとんどなし。

修行ではありませんが、かなりストイックな日々を送っていました(笑)
 

仕事をするようになってからは、それなりにプライベートな付き合いもするようになっていきます。

でも、どこか本心を打ち明けられないような自分がいつもいるのです。
 

大嫌いな自分。

しかもそれは年齢を重ねるごとに、どんどん大きくなっていく。
 

それを受け入れられない私は、必死に違う自分になろうとしていました。

自分が描く理想の自分を追い求めるかのように。
 

表面上は普通に会社に行って、同僚と遊んだり、飲みに行ったり、たまにはデートもしたり(笑)

しかし、心の中ではどんどん孤独になっていったのです。
 

孤独を紛らすかのように、ひたすら読書もしました。

身体も鍛えました。
 

しかしダメでした。。。
 

あるとき、その孤独がピークを迎えます。
 

その日、夜遅くに荒川土手を走っていたのですが、

突然、胸が張り裂けるような感覚を味わい、足が止まりました。
 

『もうダメだ、、、』

と心の奥の奥の方から声がします。
 

目には涙が溢れてきます。
 

天を仰ぐように心の中で叫びました。

『神様、、、、、、、、』

孤独ということに関して言えば、これが臨界点だったみたいです。

その後、少しずつ状況が好転していきました。
 

心を閉ざしていた私に手を差し伸べてくれるような人たちが現れてくれたからです。
 

私も最初から全て心を開けたわけではありません。

その出会いを重ねるごとに徐々にという感じです。
 

その人たちは、ある一定の間隔を経て、ひとり、またひとりというふうに現れてくれました。

まるで、私のそのときの状況に合わせるかのように。
 

その出会いのお蔭で、少しずつ『大嫌いな自分』とも向かい合えるようになっていきます。

そして、それを受け入れられるようにもなったのです。
 

その過程でこんなこともありました。
 

ある日、私の脳裏に10歳くらいの自分がうずくまって泣いている姿が浮かびました。

あまりに鮮明なイメージだったので、いまでも忘れません。
 

『ああ、きっと長い間、置いてきぼりにしてきた自分だ』

とすぐに悟りました。
 

いわゆる、インナーチャイルドというものですね。
 

私はうずくまって泣いているもう一人の自分に、

『いままで、ごめんね。。。』

と涙ながらに伝えました。

細かいところなど、全てを語っているわけではないのですが、以前の私なら、、、

こんなところで、自分の過去の暗くて思い出したくない話をするなんて考えられません(笑)
 

しかし、それができるのは、今は自分の闇、『大嫌いだった自分』『思い出したくない過去の自分』を受け入れているからです。

そして、その時期があるからいまの自分自身があると心の底から思えるからです。
 

 

スピリチュアルなどの見えない世界では、アセンションとかいろいろなことが言われています。

確かにいまは、いろいろな変化の時期に来ているのだと私も思います。
 

しかし、そういう言葉に踊らされてばかりいると、自分自身を見失うこともあります。
 

嫌いな自分、思い出したくない過去。

蓋をして、見て見ないふりをしている自分の闇。
 

かつての私がそうだったように。
 

 

見えない世界に傾倒し過ぎると、どこかフワフワして、地に足がついていない感じになります。
 

精神や意識を高めるということに異論はありませんが、

理想を追い求めるあまり、等身大の自分が置いてきぼりになってしまうこともあるからです。
 

それは、自分の弱さだったり、醜さだったり、出来れば向き合いたくないような自分です。

古事記などの神話で描かれている天の岩戸隠れは、、、

アマテラスオオミカミが弟のスサノオの乱暴狼藉に困り果てて、岩戸に隠れてしまったということになっています。
 

しかし、あれは、アマテラスオオミカミがいまの自分や状況を見つめ直すために岩戸に入ったのかもしれません。

もう少し、前向きな意図があったのではないかなと想像します。
 

そして、本来の自分の輝きを思い出し、今の自分に出来ることをしようと岩戸から出てきた。

もちろん、周りの神々のサポートがあったからなのは言うまでもありません。
 

これは神話の話ではなく、現実の世界、誰の人生にも起こることだからです。

それをあの話は教えてくれているように思います。
 

 

人は、その深さや重さ、出来事も違うでしょうが、人生のいずれかの時期に『闇』を経験します。
 

簡単には、言葉に出来ないような経験をされている人もいるでしょう。
 

誰もが、その時期に自分自身と向かい合い、見つめ直すことを余儀なくされます。

そういう状況に追い込まれることで、人は自分本来の輝きを思い出していくのだと私は思います。
 

世界が『闇』だけなら、『光』を知ることはできない。

世界が『光』だけなら、『闇』を知ることもできない。
 

闇を経験し、それを受け入れることができる人だけが、本当の意味での光を知ることができます。
 

人生には、闇と光の両方があります。

一生懸命、光だけを見ようとしても、バランスを欠くだけです。
 

振り子は左右両方に揺れても、中心に戻ってきます。

闇も光も受け入れれば、どちらに揺れても、自然と中心に戻ってくる。
 

光だけを見るのは、この振り子の法則に逆らって、一生懸命、光のところに留まろうとするようなものです。

いずれ、疲れ果て、振り子は逆方向に向かっていきます。
 

自分の闇と光を受け入れて、それを統合できた人だけが、本来の輝きを放つことができるのです。

タマシイは『タマ』(良心)と『シイ』(欲)に分かれます。

誰もが、『タマ』を磨くために何度も何度も、この世に生まれてきます。
 

その道は果てしなく、険しく、簡単ではないし、

私もまだまだ、その途上のひとりに過ぎません。
 

きれいな言葉だけを並べて、

分かったような顔をしたくはないし、

悟ったようなこともいいたくない。
 

等身大の弱い自分や、醜い自分を置いていきたくない。
 

 

人は誰もが神様と同じ御霊を宿しています。

しかし、肉体がある以上、人間としてしか生きられません。
 

『タマ』と『シイ』の間で正直に葛藤しながらも、『タマ』を磨いていく。

そういう自分で在りたい。
 

そう思います。

この詩は、2年くらい前にふと浮かんだものです。

この記事を書いていたら思い出しました。

スマホのメモにまだ残っていたので。
 

『陰陽合一』

完璧も
不都合を生み

ユートピアは
存在しない

人心は
清濁両輪

他心の
善悪を知り

自心の
善悪も知る

落ち込めど
また立ち上がり

涙拭き
笑みを浮かべる

雨が降り
また雨が降る

久々に
陽光あれば

闇にさす
光のように

ふと氣づく
感謝の念

現世の道も
また然り

闇あれば
また光あり

陰陽は
表裏一体

陰陽一致は
自由の扉

人生は
深き旅なり

P.S.最後に自分に向かって言いたくなった。

皇紀2633年6月12日6時27分。

あの時、生まれてよかったね!

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あれから44年。

いろいろなことがあったけど、その全てが今の自分へとつながっている。
 

もし、死ぬときに、、、
 

看取ってくれる人がいたら、その人に、

『ありがとう』

って笑って言おう。
 

もし、ひとりだったとしても、

『ありがとう』

って笑って言おう。
 

また生まれてくるかもしれないけれど、

この時代、この肉体での人生は一度きり。
 

後悔すんなよ、自分!

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