忘れていた大切なことを思い出すために、、、

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今、時代は大きな転換期を迎えています。
 

それをこと細かく語るまでもなく、ご自身の人生を問われるような出来事にあなたも遭遇しているのではないでしょうか。
 

多くの人が、外へ、外へと答えを探し求めてきました。
 

結果として、便利という快適さは得られたかもしれませんが、肝心なことは得られず。
 

世界は拡大し、分離を続け、年々混沌とした状況になっていく。
 
 

その状況におかしいと思い、氣づいた人は内へ、内へと統合と調和に意識を向け始めています。
 

結局、答えは自分自身のより深いところにあり、ただそれを忘れていただけ。

それを思い出せばいい。
 

そう氣づいてしまったから。
 
 

意識が統合と調和に向けば、それに沿った情報がやってきます。

それに沿った場所に行き、人に会うようになります。
 

宇宙の流れは完璧です。
 

ひょんなことから、訪れることになった麻賀多(まかた)神社

ここは岡本天明という人が神様から言葉を降ろした場所であり、「日月神示」発祥の地です。
 

膨大な言葉からなるこの書物は、70年の時を経ていま私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか?
 

この世に偶然はなく、全て必然と言われます。
 

このタイミングで訪れた麻賀多神社で、私は一体どんなことを感じたのか?
 

いま感じている私なりの真実を書いてみたいと思います。

あるメッセージがキッカケでした、、、

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「トッチさんの本が出版されることになったの。よかったら読んでみてね。」

ある日、友人の千葉由紀子さんから、こんなメッセージが届きました。
 

トッチさんは、「神聖幾何学アーティスト」というチョット聞き慣れない(?)肩書をもつ方です。
 

フラワーオブライフなどの神聖幾何学を綿棒で立体的な作品として創られています。
 
 

その作品は美しさや鮮やかさだけではなく、調和のエネルギーを放ち、神秘的な輝きがあります。
 

とにかく、

「これが本当に綿棒で創られているの!?」

とビックリしてしまうような作品です。
 

でも、もっとすごいと思うのは神聖幾何学を綿棒で立体的に作ることによって、真理へと至る道に氣づき、それを伝えているということ。
 

私は実際にお会いしたことがないので、詳しいことは分かりません。

でも、多くの人が氣づいていないことを伝えることができる数少ない人の中の一人ではないかと思っています。
 
 

彼女から送られてきたリンクから早速、その書籍「日月神示、マカバ、フラワーオブライフ 宇宙の最終形態「神聖幾何学」のすべて【一の流れ】」を予約注文。
 

数日後に届き、早速読んでみると、なるほど、これはすごい本だと思いました。
 
 

この本、トッチさんと古神道を研究している磯正仁さんという方の共著となっています。
 

全12回のセミナーの1回目の内容が収録されているのですが、1回目とは思えないくらい本質的なことが語られているからです。
 

私が常々感じていることも書いてあったので尚更共感しました。
 
 

そして、この本で「日月神示」について語られていたのですが、

「えっ!?」

と、かなりビックリなことが書かれていました。
 

それは「日月神示」と神聖幾何学で有名な「フラワーオブライフ」との関連性です。

(驚くことはもっとあるんですけれど、氣になる方は本を読んでみてくださいね。)
 
 

「う~ん、これは面白くなってきたぞ」

と好奇心旺盛な私は、思わず本を受け取ったこの日に2回も読んでしまいました(笑)
 
 

あなたは「日月神示」を読んだことがありますか?
 

私は、数年前に一度だけ読んだことがあるのですが、正直よく分からなくて断念しました。
 
 

意外な形で、また「日月神示」に触れることになって、、、不思議ですよね。
 

この本は「日月神示」の重要性がとても分かりやすく説かれています。

しかも、かなり変わった視点と角度からです。

これは、今までの「日月神示」に関する本にはない画期的なものだと思います。
 

と言ってもまだ第1回目なので、さわりや概要だと思いますが、このお二人が語る言葉のエネルギーからはそれを感じるのです。

日月神示を読んでいただきたいのですが、真正面から読んでも、それはその通りの文章でしかありません。

神示に秘められた叡智を読み解いていくには、文字やメッセージの周波数へと入っていく、立体意識が欠かせないのです。

引用:「日月神示、マカバ、フラワーオブライフ 宇宙の最終形態「神聖幾何学」のすべて【一の流れ】」P157

文字やそこに込めれられたメッセージの受け止め方って人それぞれ違います。

だから、受け取る側の意識を整える必要があるということですね。
 

この本は「日月神示」をどのような視点で読み解いたらいいのかということを伝えてくれています。

今のところ1回目の内容が書籍として販売されたばかりですが、これから続きが読めるのが樂しみですね。
 

そんなわけで、この本を手にしたことで、私の意識の中で「日月神示」という書物に、そこに書かれているメッセージに、再び光が当たり始めたというわけです。

ふと目に留まった本がさらなる展開を生み、「麻賀多神社」へと誘われます

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「日月神示」について新たな認識をもったある日のこと。

図書館でふと目に留まったのが「日月神示 縄文サンクチュアリ【麻賀多神社編】/中矢伸一・ジュード・カリヴァン著」という本です。
 

中矢伸一さんは長年「日月神示」を研究されている方で、私が以前手にしたのも、この中矢伸一さんが書かれた「日月神示」の本でした。
 
 

日月神示、縄文というキーワードに惹かれて手に取って読み始めたのですが、これまたかなり興味深いことが書いてありまして、、、。
 

この本には、中矢伸一さんジュード・カリヴァンさんが、麻賀多神社に実際に行き、現地でのやり取りが写真付きで載っています。
 

読み終えると、岡本天明が言葉を降ろしたという「麻賀多神社」のことが、しきりに氣になりだして、スマホで検索。

社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。

応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。

また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。

この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。

推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。

延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。

後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。

引用:Wikipedia

「ちょっと長くて難しそう」

と思った方のためにざっと要点をまとめますね。

◇日本武尊(やまとたける)がこの地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け、伊勢の大神を遥拝(ようはい)したのがこの神社の起源

◇伊都許利命(いつこりのみこと)という人が社殿を造営

◇ご神体として祀っている二神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた

・鏡・・・稚日霊命(わかひるめのみこと)

・七つの玉・・・和久産巣日神(わくむすびのかみ)

◇「真賀多真」が三種の神器と同名であること、この一帯が麻の産地であることから「麻賀多神社」に社名が改められた

この説明を読んで、真っ先に目に留まったのは

「勾玉!?」

というキーワード。
 

私にとって「勾玉」で思い浮かべるのは、私の勾玉オルゴナイトを創ってくれた千葉由紀子さんです。

彼女は勾玉オルゴナイト工房というショップを運営する勾玉オルゴナイト作家であり、クリエイター

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※私の勾玉オルゴナイト「太陽神~SUN~」です。
 

すでに知ってるかもしれないとは思いつつ、今度は私の方から由紀子さんに、

「岡本天明が言葉を降ろした麻賀多神社って勾玉に関係があるらしいよ」

と麻賀多神社のリンクと一緒にメッセージを送りました。
 
 

やはり興味があるらしく、

「行ってみたい」

という返事が返ってきました。
 

二人の都合が合ったこともあり、一緒に参拝することになったというわけです。
 

正直、いつか行けたらいいなくらいに思っていた私は、意外と早く実現したことに、

「ああ、いまがタイミングなんだな」

と神社へ呼ばれる時はいつも突然だということを思い出していました。
 

神様からのメッセージは人や書物、さまざまなものを介してやってきます。
 

そして、今回もまた例外ではなかったというわけですね。
 

「さてさて、今回はどんなことが待っているのかな」

そんなことを思いながら当日を迎えました。

いざ、麻賀多神社へ

この日の天氣は雨。
 

あいにくの雨という表現もありますが、神社へ行くときは浄化の雨という言葉が思い浮かびます。
 

雨のときの神社もまたいいものです。
 

思ったより濡れて少し冷えましたけどね(笑)
 
 

最寄り駅は京成電鉄の「公津の杜(こうづのもり)駅」

駅からはコミニティーバスが出ていますが、本数はあまりありません。
 

200円で行けるので、時間が合えばこのバスを使おうと思っていました。

でも、次のバスまではかなり待ちそうなのでタクシーを拾い、走ること10分くらい。
 

麻賀多神社本宮へ到着です。

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タクシーから降り立ち、鳥居へと近づきます。

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一礼して境内へ。
 

雨が降りしきる中、傘を差しながら、ゆっくりと境内へと足を踏み入れます。

入った瞬間から、ふっと違う空間へきたかのようです。

境内はほとんど人がいません。
 

ひっそりと静まり返っていますが、雨音とその静寂さがまたとても心地良くて。

包み込むような柔らかな御神氣を感じて、思わず深呼吸。

足の裏からは御神氣がビンビンと伝わってくるのを感じます。
 

こんな感覚は久しぶりです。

手水舎で手と口を清め、狛犬や灯篭をじっくりと眺めながら拝殿へ。

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しんしんと降る雨音の中、傘を置いて手を合わせ、静かに神様と向かい合います。

こうして神様と静かに向かい合う瞬間がとても好きです。
 

神社の御神域で感じる静寂さや御神氣は、自我という思考を解き放ち、真我というあるがまま、感じるままの世界へと誘ってくれます。
 

真我(内なる神様)で神社にいらっしゃる神様と交流する。

エネルギーの交流と言い換えてもいいかもしれません。
 

神様も人も、この宇宙に存在するものは全てエネルギーです。
 
 

「神様は学問ではない」

と私は思っています。
 

これは知識が必要ないということではありません。
 

学問という書物に閉じ込めておくのではなく、神様を感じるという体感がやはり大切だと思っているからです。
 

もっと言うと、閉じ込められた学問という世界が形式的になりすぎて、本当に大切なことを見落としているからです。

これは意図的な情報操作が入ったということもあるでしょう。
 

神社には狛犬や灯篭など至る所に、真理に氣づくヒントがあります。

古代の人たちが体感を通しての氣づきを、形として残してくれていたからです。
 

日本人がもともと持っている感性を取り戻せば、それに氣づくことができます。
 

「本当に大切なことはなんなのか?」
 

それは体感を通して得る氣づきであり、それがあって初めて知識や情報を正しく捉えることができます。
 

本当はみんな深いところで全てを知っているんですよね。

ただそれを忘れているだけで。
 
 

私が「ホツマツタヱ」に興味をもったのは、内容の素晴らしさもあるのですが、ホツマツタヱ研究家いときょう先生から学んでいることも大きいです。

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※ホツマ出版にて販売されているいときょう先生による「ホツマツタヱ」のテキストです。
 

というのも、いときょう先生は、

「ホツマを通じて旅をしてください。神社へ参拝してください」

とよくおっしゃっているからです。
 
 

いときょう先生ご自身も、ホツマを通じて全国の神社を巡られています。
 

体感を通してお話をされるので、理屈ではない感性で感じ取ることができ、いときょう先生のお話はスッと入ってきます。
 
 

また、神伝人(つたえびと)祥平こと山田祥平さん「古事記」をベースにホツマ、カタカムナも伝えていますが、やはり神社参拝という体感をとても大切にしています。
 

彼が伝える「古事記」が活き活きとした生命力を感じるのはその体感を通したものだからなのでしょう。
 
 

感じるということをおろそかにしすぎて、難しく考えすぎていませんか?
 

「有名な先生がこう言っていた」

というのもあるとは思いますが、感じ方は人それぞれ違いますし、どう感じるのかはその人の自由。
 

そのときに感じたことが、あなたにとっての真実なのですから。

目に映る全てのことはメッセージ

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あなたは神社に参拝したときに、どんなメッセージを受け取りますか?
 

「えっ、そう言われても、神様の声なんか聞こえないし」

と思った方もいるかもしれません。
 

「神様とつながる」

というと少し難しく考えてしまう人もいるかもしれません。
 

「私にはそんな能力はありません」

と思う方もいるかもしれません。
 
 

人は誰もが神様と繋がっていて、「感度」という個人差があるだけだと私は思っています。
 

もし、その場で受け取れなくても、私たちの日常はサインであふれています。
 

「目に映る全てのことはメッセージ」

ユーミン(松任谷由美さん)の歌にもありますね。
 

これ、本当にそうだと思います。
 

誰かが言った言葉。

検索していたらふと目にとまったこと。

街を歩いたいて、ふと目にした風景や他人のやり取り。
 

確信がなくてもいいんです。

なんとなく氣になったら、そのサインを見逃さないようにしましょう。

違っていたら、それはそれでいいじゃないですか。
 

外側で起こることはすべて内側の映し鏡です。

その内側の映し鏡を磨いて綺麗にすることで、外側の世界もそのように順応してきます。
 
 

神社の鏡(かがみ)は自らの内なる神様を映し出すためのもの。

「かがみ(鏡)」の「が(我)」を取って「かみ(神)」です。
 

ホツマツタヱでは、この「が」は「闇」という解釈をしています。
 

己の「が(我、闇)」を取って、かみ(神)となる。

それが内なる神を思い出すことにつながります。
 

神社で参拝するのは、己を見つめ直し、それを思い出すため。

シンプルですが、ここ、かなり重要です。
 

誰しも、いろいろな願いがあるとは思います。

でも、大切なのは、あなたのその願いが「真我」と呼ばれる深いところからのものなのかということです。
 

結局、人生の問題(と思われているもの)は頭で考える「自我」と心(魂)で感じている「真我」とのズレによって起こります。

不快な感情はそのズレを知らせるためのサインであり、ナビゲーターみたいなものです。
 

その一人ひとりのズレが不協和音を起こし、またその不協和音同士が共鳴し合い、増幅されていきます。

その増幅された不協和音が、この世界にさまざまな問題を引き起こしていく。
 

現在の状況は「自我で生きる」ということが生み出した分離感が行き過ぎてしまった結果だと思います。

その分離感が生み出す外側の不安や恐れにばかりに目を奪われて、ますます委縮してしまう。
 

もしあなたが、

「自分には何も出来ない」

と自分に無力感を感じているのなら、それは外側から問題を解決しようとしているからです。
 
 

個人が抱える問題にせよ、世界で共有しているさまざまな問題にせよ、新たな世界へとシフトしていくには、ひとりひとりが内側の鏡を綺麗にし、創造していくという方法しかないのだと思います。
 

答えはすでに一人ひとりの中にあり、より深く入っていくことができれば人類共通の集合意識にもつながることだってできるのです。

過去、現在、未来、そこには時空を超えた全ての叡智があります。
 

縄文時代は1万年以上も続きましたが、大きな争いはありませんでした。

いま、多くの人が縄文というキーワードに興味、関心を持っているのは、集合意識にある縄文時代の調和を深いところで感じ取っているからではないでしょうか。
 
 

「目に映る全てのことはメッセージ」

大切なのは、それに氣づけるかどうかですね。
 

いつだって答えは、いまここにあるのですから。

「日月神示」に密接な関係がある天日津久(あまのひつく)神社へ

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社殿の奥には天日津久(あまのひつく)神社があります。

ここは「日月神示」にとても関係が深い場所なのですが、岡本天明がここに至るまでの経緯もなかなか興味深いですよ。

第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史のことを聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。

扶乩(フーチ)とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人が一組になって行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一など、十数名であった。

その場において審神者(サニワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中のため、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。

ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。

引用:Wikipedia

フーチという神霊に御意見を伺う方法があって、陸軍や古代史研究家の集まりの司会進行役を岡本天明が務めていたとありますね。
 

ちなみに、岡本天明は画家で神典研究家ですが、もともと霊媒体質でもあったそうです。
 

このときに降臨した神霊が、後に岡本天明を通して日月神示のメッセージを降ろすことになる「国常立尊(くにとこたちのみこと)」です。

ただ、このときに名乗ったのが「日月のかみ」「天之日月神」
 

神典研究家の天明もこの神様がいかなる神なのか、どこに鎮座されているのかしばらく分からなかったそうです。
 

この2ヶ月後、天明は知人の誘いで麻賀多神社内の「天之日月神」を祀る天日津久神社に参拝することになります。

そして、参拝した後、社務所でひと息ついていました。

すると、予期もしなかった自動書記現象が始まって、もっていた矢立と画仙紙を取り出すと猛烈な勢いで意味不明の殴り書きをしたそうです。
 

時に1944年(昭和19年)6月10日、この後、17年続く「日月神示」の始まりでした。

そもそも日月神示とは?

「そもそも日月神示って一体どんな書物なの?」

と思っている人もいるかもしれません。

ポイントだけ知りたい方は、引用の後に書いてあることを読んでくださいね。

日月神示(ひつきしんじ、ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊よる神示を自動書記によって記述したとされる文書である。

原文はほとんどが漢数字、独特の記号、そして、若干のかな文字の混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられていると主張する「巻」が13巻有り、天明は、この未発表のものについて「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。

日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初はほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や自身を霊能者する者の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年(大正6年)11月9日 – 2009年(平成21年)6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたといわれている。 しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的である。そのために、仮訳という副題を添えての発表もあった。

なお、原文を解読して漢字仮名交じりの文章に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになって来たといわれている。

引用:Wikipedia

「日月神示」についての引用の要点をざっとまとめるとこんな感じです。
 

・神典研究家、画家の岡本天明が国常立尊から受け取ったメッセージを自動書記によって記述した文書。
 
・本巻38巻、補巻1巻の計39巻の他、未発表のものが13巻ある。
 
・原文はほとんだ漢数字や独自の記号に若干のかな文字が混じったものであり、抽象的な絵のみで書かれたものもある。
 
・あまりに難解過ぎて、天明自身も当初は解読できず、神典研究家や霊能者の力を借りて少しずつ解明された。

この日月神示、発表されているだけでも全39巻とかなりの量です。
 

少し読んだだけで、分かったようなことを書ける代物ではないことがよーく分かります。
 

なので、

「これが日月神示だ!」

などと偉そうな解釈を述べるつもりはありません。
 

現時点では、浅はかな解釈しかできないのも自覚しています。
 

でも、

「しっかりと研究しなければ記事にしてはいけない」

なんて言っていると何も書けなくなってしまいます。
 

感じ方、捉え方は人それぞれであり、時とともに変わって行くもの。
 

いま自分が感じていること、思っていることを言葉にするのはとても大切なことだと思うんです。
 

真理という真(まこと)の理(ことわり)は永遠不変のものですが、真実というのは人それぞれ、その時で違いますからね。

【真理】・・・いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。「永遠不変の真理」「真理の探究」

【真実】・・・うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「真実を述べる」「真実な気持ち」
 
引用:デジタル大辞泉

それぞれの人が、(うそ偽りなく)感じたことが、そのときの、その人にとっての真実です。
 

それが真理に近い、遠いの違いはあるにせよ、その全てを内包するだけの懐の深さを持っているのが真理という永遠不滅のものだと思います。
 

真理は永遠不滅のものなのに、「これこそが真理だ!」とひとつの側面から語り始めるから、この世界には争いが絶えないのではないでしょうか。
 

「真理」という言葉を使わずとも、人は「これが絶対」と言い始めた時点で他の人や考えを排除しようとします。
 

そして、他人に自分が感じる「絶対」を押し付けようとします。

「それ、あなたが感じている真実で、他の人が感じている真実は違いますから」
 

人それぞれがどのように感じるかは自由です。
 

それを強要することは、この世界の調和を無視すること。
 
 

もし誰かが感じていることが、あまりに真理から遠のいているとしたら、その人はその人のタイミングで真理に近づくような学びや氣づきがあるはずです。
 

「それを私が分からせてやろう」

とするからおかしなことになるのです。
 

氣づく人は、その人のタイミングで氣づくのですから。

そして、見え方、感じ方が違うだけで本当は同じだったということも。
 
 

だから、私もおかしなことをするつもりはありません(笑)
 

「私は日月神示を知っている」

というふうに書くつもりも毛頭ありません。
 

だって正直、いまの私には難し過ぎますから(笑)
 
 

よく分からないのは重々自覚しつつ、いま感じている自分の真実を書いてみたい。
 

真理から遠いかもしれませんが、それが今の私が立っている場所です。
 

それを自覚しないで、

「これが真理ですよ!」

なんて言いたくありませんから。
 

書くことで、私自身の中でこの「日月神示」に光が当たるところと、当たらないところの違いも分かります。
 

ただそれだけなんですね。

それでいいんです。

難解な書物として名高い「日月神示」は一体何を言わんとしているのか?

さて、難解、難解と言っていても始まらないので、今の私が感じる真実を書いてみたいと思います。
 

あくまで、今の私が感じている真実ですからね。

真理じゃないですよ(笑)
 

書かれていることが多岐に渡り、膨大な量なので「これ」と一言で表現するのは難しいのですが、究極的には、

「魂の本質、真理への回帰」

のためのものだと思っています。
 

「日月神示」の膨大なメッセージはさまざまな側面から、このことについて伝えてくれているからです。

 

まあ、それだけだと、

「他の宗教書や思想書だってそうじゃないか」

と言われてしまいそうですが(笑)
 

ただ、「日月神示」はどの宗教や思想の側面にも属していないんですよね。

もっと広大で多角的な視野で捉えて、ありとあらゆるものを内包しているという感じでしょうか。 

内容とか口調とかに激しさを感じつつも、一方的ではないんですよね。

伝えようとしていることが。

おそらくそこが立体的意識がないと理解できないということだとは思うのですが。
 

では、「日月神示」には具体的にどんなことが書かれているのか、引用を少し交えながらご説明していきますね。

善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、【此度の岩戸は立体に入る門ぞ】。
 
引用:五十黙示録(いせもくしろく)五葉之巻 第十一帖

大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教。
 
引用:日月神示 秋の巻 第一帖

「善悪でも行かん、悪善でも行かん」

「悪をも抱き参らせてゐる」
 
という記述がありますね。 

神も仏もキリストも元は一つぞよ。
 
引用:日月神示 天つ巻 第四帖

世界にはさまざまな宗教や思想があって、それが争いのもとになっていることは、みなさんご存知の通りです。
 

一神教、絶対的な神様を崇めない日本人にとっては、

「なぜあんなにいがみ合っているのか」

という感覚もあると思います。
 

とは言え、

「悪をも抱き参らせてゐる」

「悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、【此度の岩戸は立体に入る門ぞ】。」

ちょっとドキッとする言葉ですよね?
 

それに「立体に入る」というのは分かりづらい表現だと思います。
 

立体について詳しく述べられている他の記述もご紹介しますね。

反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次(ぜんじ)輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ、低い世界は戒律なくてはならんぞ、人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴッチャにして御座るぞ、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷ひの道であるぞ、気つけ下されよ。病むことは神から白紙の巻物をもらったことぢゃ、この巻物をどんなに読みとるかによって新しき道がひらけるのぢゃ。神からの巻物おろそかにするでないぞ。
 
引用:日月神示 五十黙示録 碧玉之巻 第一帖

善と悪というのは時代や価値観で変わってくるので、かなり曖昧な概念です。
 

いわゆる「正義」というものは捉える角度によって違いますし、それがもとで争いも起こります。

また一見、善い人と思われている人の中にも、悪の部分はありますし、その逆も然りです。
 

「どれが善で、どれが悪」
「どこまでが善で、どこまでが悪」

これをみんなが納得するように定義付けしようと思っても所詮無理ですよね?
 

「日月神示」はそこを見透かしたかのように、善も悪も超えて「抱き参らせよ」と教えてくれています。
 

そのために平面的な見方では限界があるから、立体的な見方をしなさいと説いてくれているのでしょう。
 
 

立体的な見方をすることで、

「違うと思っていたことが実は同じだった!」

ということに氣づくからです。 

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※綿棒で創った「ベクトル平衡体」と「マカバ」を組み合わせたものです。冒頭でご紹介した書籍「日月神示、マカバ、フラワーオブライフ 宇宙の最終形態「神聖幾何学」のすべて【一の流れ】」を読むと、この2つの形の重要性が理解でき、平面を立体にすることで観えてくる真理が腑に落ちると思います。
 

誰もが内に善と悪、光と影を内包しています。

そして、外側の世界(現実)は内側の世界(精神)の投影です。
 

時間は過去、現在、未来と流れているというのが常識でしたが、本当はすべてがいまここに同時に違う次元に存在しています。
 

「いまここに全てがある」

ということですね。
 
 

違うように見えるだけで、全てが同時にあり、同じでもある。
 

だから、その統合が大切で、

「抱き参らせる」

というのは善悪、過去、現在、未来を超えた究極の大調和を表しているのだと思います。
 

まあ口で言うほど生易しいことではないですけれどね(笑)

 

そのために、意識の抽象度をさらに上げることが求められてきます。 
 

抽象度を上げるとは、いままでの地球の概念から自由になることです。

一つひとつ手放して、どんどん身軽になっていくみたいな。
 

この意識の抽象度を上げるというのが立体的な解釈なのでしょうね、きっと。
 
 

日月神示はこのような感じで、日本人への予言、提言がこれでもか、これでもかと述べられています。
 

また、ミロク(弥勒)の世、神の国という言葉もよく出てきますが、政治、国をどのように収めるかという提言もあります。

今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、🌀(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。六月十七日、かのととりの日、ひつくの神。
 
引用:日月神示 光の巻 第三帖

このミロクの世とか神の国は物質世界である現在の地球のルールから見ると、かなりぶっ飛んだ世界です。
 

普通の感覚で読めば、

「こんなの無理だよ」

「理想ばかり書いてある」

ときっと思うはずです。 

道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。何時までも同じであってはならん。三千年一切りぢゃ。今迄の考へ方を変へよと申してあらう。道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん。今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。ぢゃと申して土台をすててはならん。土台の上に建物たてるのぢゃ。空中楼閣 見て居れん。
 
引用:日月神示 秋の巻 第四帖

このように道徳、倫理の本質を理解して、それを向上させよ。

現実的に一歩ずつ進めよという面が垣間見れる記述もあります。
 

語りだしたらキリがないのですが、最も伝えたいことはやはり「身魂磨き」をして神性を高めるということだと思います。 
 

1944年(昭和19年)6月10日に「麻賀多神社」で初めて降ろされたのがこちらの言葉です。

二二富士は晴れたり、日本晴れ
神の国の誠の神の力ちからを現わす代世となれる
仏ほとけもキリストも何もかもはっきり助けて
七しち難しい御苦労の無い代世が来るから
身魂みたまを不断ふだんに磨いて一筋の誠を通して呉れよ
いま一ひと苦労あるが
この苦労は身魂を磨いて居らぬと越せぬ
この世始まって二度とない苦労である
この結むすびは神の力でないと何も出来ん
人間の算盤そろばんでは弾はじけん事ぞ
日本はお土が上がる、外国はお土が下がる
都みやこの大洗濯、鄙ひな・田舎の大洗濯、人のお洗濯
今度はどうも堪こらえてくれと言うところまで
後へ引かぬからその積りでかかって来い
神の国の神の力をはっきりと見せてやる時が来た
嬉しくて苦しむ者と苦しくて喜ぶ者と出て来る日本は神の国
神の力でないと何も成就せん
人の力ちからで何が出来たか、みな神がさせているのぞ
いつでも神懸かれる様に綺麗に洗濯しておいて呉れよ
戦いくさは今年中と言っているがそんなちょこい戦ではない
世界中の洗濯だから、要らぬものが無くなるまで
終わらぬ道理が分からぬか
臣民同士の戦でない
カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉
タマと魂たまの戦いくさぞ
己おのれの心を見よ、戦が済んでいないであろう
それで戦が済むと思っているとはあきれたものぞ
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一
寂さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ
寂しさ越えて時を待つ、加美かみが世界の王になる
てんし様が神と分からん臣民ばかり
口と心と行いと、三つ揃そろった誠まことを
命みことと言うぞ
神の臣民みな命みことになる身魂
掃除身魂みたま結構
 
引用:日月神示 上つ巻 第一帖

また、日本の重要性についても説いています。

真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、気つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、【くどう】申してゐるのぞ。

引用:日月神示 碧玉之巻 第十三帖

世界を一つにするのであるから王は一人でよいぞ、動きは二つ三つとなるのぢゃ、キはキのうごき、ミはミのうごき、動いて和してキミと動くのぢゃ。三が道ぞと知らしてあろう、自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ。九分九厘まで進まねば後の一厘は判らん、今が九分九厘であるぞ、日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタ国、おのづから相違あるぞ。

引用:日月神示 五十黙示録 極めの巻 第一帖

長年、日月神示を研究されている中矢伸一さんも、 

「日本は世界の霊的中枢の国ですから、日本が潰れたら世界も潰れる」
「日月神示は日本人覚醒の書」

ということをおっしゃっています。
 

この日月神示が降ろされたのは70年くらい前のことですが、いまの日本人にこそ必要な書だとも言われています。
 

それだけ現在が追い込まれて、切羽詰っているときだということですね。
 

「日本人が長い間忘れていた大切なことを思い出させてくれる」

それが「日月神示」なのでしょう。 
 
 

本当に多岐に渡っているので、全て取り上げるとキリがなくなってしまうので割愛させて頂きますが、この他にも「土に尊べ」「土に還れ」という農への回帰や食についての提言などもあります。
 
 

ここまで読んできて、

「身魂磨き、神性を高めるなんて大変で苦しそう」

と思う人もいるかもしれません。
 
 

私を含め、多くの人が今まで自我全開で生きてきましたからね。

それを、真我というもともとの姿で生きましょうというわけです。
 

そもそも、自我と真我って概念(ルール)が全然違います。
 

磨く、高めるというより、今まで縛ってきた概念(ルール)を手放して、手放して、違う概念(ルール)にシフトしていくと捉えた方がいいのかもしれませんね。
 
 

当然、旧ルールと新ルールで摩擦が起こりますから大変な面もあるでしょうが、「魂の本質」って喜びだと思うんですよね。
 

本質の喜びに還るためにするわけですから、

「大変だけど、樂しんじゃおう」

くらいの氣持ちでいるといいのかもしれませんね。

御神木の大杉!ここがいちばん凄かった!!!

本殿から向かって左奥に御神木の大杉があります。

この「麻賀多神社」の御神域内はとてもエネルギーに満ちあふれていますが、ここの大杉はその中でも最も居心地がよくエネルギーが高い場所でした。

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御神木の周りを二人で何度も周りながら、その心地よいエネルギーを感じていました。

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御神木に顔が写っているのが分かりますか?

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御祭神である「和久産巣日神(ワクムスビノカミ)」「稚産霊命(ワクムスビノミコト)」は穀物の生成を司る神です。

名前の「ワク」は若々しい、「ムスビ」は生成の意味があります。
 

神伝人(つたえびと)祥平こと山田祥平さんによると、再生のエネルギーを司る神なのだそうです。
 

古事記では次のように記されています。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名(みな)は弥都波能売神(みつはのめのかみ)、次に和久産巣日神(わくむすびのかみ)。此の神の子(みこ)を豊受気毘売神(とようけびめのかみ)と謂(まを)す。

引用:古事記「伊邪那美命御石隠の段(いざなみのみことみいはがくりのくだり)」

豊受気毘売神(とようけびめのかみ)は伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神のことです。

和久産巣日神(わくむすびのかみ)は親神ということになりますね。

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(※鳥居の前のバス停付近にある看板です。)
 

伊勢神宮の外宮に祀られていほどの豊受大神ですが、なぜか日本書紀には登場しません。
 

「ホツマツタヱ」ではトヨケ(豊受大神)と呼ばれて、伊邪那美命(イザナミノミコト)の父ということになっています。
 

もしかしたらですが、豊受気毘売神(とようけびめのかみ)と豊受大神は別なのかもしれません。
 
 

神様もいろいろな語られ方をされますので、もっといろいろな面からの検証が必要かなと思います。
 

検証するというのはとても大切なことですし、そのお役目を担っている人がいるからこそ、私みたいによく分からない人間が「ホツマツタヱ」という今まで未知だったものが学べるわけです。
 

ひとつのことを突き詰める人もいれば、自分に必要なことをセレクトして、それを自分の人生に活かす人もいます。
 

どちらが良い、悪いではなくて、役割なんですよね、それぞれの。
 
 

そうやって、個々の人が全体がよくなるように動いて、この世界は回っていく。
 

もちろん、人間の自由意志に任されている面が往々にしてあるので、悪い方向へ行くことだってあるし、世界を見渡せば不安な要素はたくさんあります。
 
 

個々の人がどんな役割を担っているにせよ、「全体の調和という一筋の光」がその人の心を、内なる神を照らしているのだとしたら、まだ大丈夫だと思うのです。

そう信じたいですよね。
 
 

ホツマには「つくす、やわす」という「トの教え」があります。

これはアマカミ(古代の天皇の呼び名)が無私の精神で国を治めるというものです。
 

でも、これは私たち一人ひとりが生きる道標にもなると思っています。
 

つくすは創造、やわすは調和。

個人、個人がする創造が全体の調和につながっていくという在り方を目指すということですね。
 

自我という分離意識ではなく、真我という普遍意識で生きること。

自我は地球のルールで、真我は宇宙のルールです。
 

地球ルールは、現在の私たちががんじがらめになっているもの。

宇宙ルールは、そのがんじがらめに囚われないもの。
 

日月神示では「アホになれ」という言葉が出てきますが、現在の縛られたルールから本当に自由になるには、そのくらいの方がいいのかもしれません。
 

ちなみにこの「アホ」についても「日月神示、マカバ、フラワーオブライフ 宇宙の最終形態「神聖幾何学」のすべて」を読むと、奥深い発見をすることになりますよ。
 
 

結局は個人、個人の内側からアクセスするしかないのですが、その掘り下げ方が中途半端だと、全体がよりよくなる方向へ影響を与えることはできないのだと思います。
 

「アホになるくらい徹底的に自分自身を掘り下げてみる」

個人の意識を突き抜けて、集合意識へと影響を与えるくらいに。
 
 

内外ともに、日本を取り巻く状況も予断を許せませんよね。
 

でも、一人ひとりがもつ創造の力ってすごい可能性を秘めています。

そして、その創造の力が集まって、全体の調和のために活かされたとしたら?
 
 

外側から問題を解決するのは自我のやり方であり、地球のルール。

内側から創造するのは真我のやり方であり、宇宙のルール。
 

問題解決と創造では視点も波動もエネルギーも根本的に全然違います。
 
 

自我は今まで何度も生まれ変わってきた記憶(カルマ)。

真我はその記憶(カルマ)にとらわれない普遍的なもの。
 

地球のルール(自我)が大多数を占めている中で、宇宙のルール(真我)で生きる。
 

「そんなの難し過ぎる!」

まともに考えたら、そう思うかもしれません。 
 

でも、そういう流れになっているんですよね。
 

なので、もう観念して、降参して、手放して、

思い切ってアホになってみるのもいいのではないでしょうか。 

せっかくだから奥宮へも行こう!

「奥宮へは本宮から歩いて20分くらいだね」

帰りのバスまで時間があったので調べてみました。
 

「ここまで来たら、やはり行っておきたい」

と奥宮へと向かいます。

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歩いていると途中で「岡本天明屋敷跡」という立て札があったので思わずパチリ。

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途中少し迷いながらもなんとか奥宮へ到着。

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奥宮もまた心地よいエネルギーに包まれていました。

それをじっくりと味わうかのようにゆっくりと進みます。

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二人で静かに手を合わせて、じっくりと神様と向かい合います。

もう言葉はいらないような氣がしてきて、ただ神様のエネルギーを感じていました。

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ここ奥宮にも御神木の大杉があります。

本宮ほど大きくはありませんが、ここも居心地がよかったです。

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すっかり大杉がお氣に入りとなった私たち。

やっぱり一緒に写真を撮りました(笑)

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撮ってもらった写真を見て驚きました。

スーッと大杉と一体化しているかのようだったからです。

多少猫背の私の背筋がピーンとして背が伸びたかのようで。

大杉のエネルギーに引き上げられたのかもしれませんね。
 
 

ここ奥宮には「麻賀多神社」を造営した伊都許利命(いつこりのみこと)のお墓があります。

扉が閉まって中へ入れなかったので、扉の外で手を合わせました。

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急遽訪れることになった「麻賀多神社」の本宮と奥宮。
 

包み込まれるように柔らかくて高いご神氣を感じながら、「日月神示」岡本天明に思いを馳せた一日となりました。
 

三次元の物質世界である地球は、自我という分離意識の影響でバラバラな世界となっています。
 

「これ以上、分離が進み過ぎると、どうなってしまうんだろう?」

という危惧もあります。
 
 

でも反対に、統合へと向かっているエネルギーの流れがあるのも確かです。
 

この宇宙に存在するものは、もともと全てエネルギー。
 

神社に来ると、思考から自由になり、それをより体感しやすくなります。
 

すると、なにか大切なことをふっと思い出すような感覚を覚えるときがあるんですよね。

思考から自由になって、心地よい感覚に身を委ねているときって源のエネルギー(ヴォルテックス)とつながりますから。
 

そういうことってありませんか?
 

どの神社がそうかというのは人によって違うでしょう。
 

ご神氣が高く、それを感じやすい神社というのはあります。
 

この「麻賀多神社」はまさにそうでした。

少なくとも、実際に足を運んで、体感した私たちはそうだと思っています。

 
 

帰りの電車の中、二人で

「日月神示 縄文サンクチュアリ【麻賀多神社編】/中矢伸一・ジュード・カリヴァン著」

の本を読んでいると、

「あれ?」

というくらい本に書いてあることが深く入ってくるのに氣づきました。
 

きっと、「麻賀多神社」へ行って、その場を体感したことで、そこに書かれていることの意味付けの深さが変わったのでしょう。
 

「なにを読んでいたんだろうね?」

と思わずおかしくて、二人で笑ってしまいました。

最後に、、、

神社へ行く理由は人それぞれだと思います。
 

どんな理由で行くのか。

それも、個人の自由です。
 

ただ、もう表面的な願いではなく、より深いところでの氣づきのために神社へ行くという氣持ちは必要かなと思います。

それはここ何年かで感じてきたことではありますが、この「麻賀多神社」への参拝で改めて、それを強く感じました。
 
 

神社には、真理へ至る氣づきがたくさんあります。
 

自我で生きる分離の時代から、真我で生きる統合の時代へ。

その流れに沿うか、逆らうか。

良い、悪いというより、どちらを選択するのか。
 

この大きな時代の変化の中で、混沌とした時代のうねりの中でも、一人ひとりに選択の自由が与えられています。
 

当然、自由だけではなく、この地球という共同創造の場を共有する一員としての責任もあります。
 

「私一人くらい、、、」

そんな思いを抱いている人もいるかもしれません。
 

それもその人の選択です。

仕方ないのかもしれません。
 

一人ひとりに選択の自由が与えられていますから。
 

でも、、、あなたの魂は泣いているかもしれません。

この地球で自分が決めてきた経験がすることができなくて。。。
 

普遍的な意識であるあなたの真我は、全体の調和のために生きることを望んでいます。

それは自己犠牲ではなく、個に宿っている能力を全体の調和のために活かすという喜びのためにです。
 

そっと自分の胸に手を当てて、聞いてみてくれませんか?
 

「本当はどうしたいの?」
 

その声を聞いてあげられるのは、あなたしかいないのですから。
 
 

P.S.私がこの記事で、参考にさせて頂いたのは下記の3冊です。 

きっと、新たな視点で「日月神示」を捉えることができ、興味が湧くと思いますよ。