客観的視点だけでは分からないこともある

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歴史というのは過去の出来事を、

「あーでもない、こーでもない」

と分析することで成り立っています。
 

過ぎ去ったことを、今という安全な(その出来事が終わった)地点でふり返ることができるから、客観的に観ることができる。

でも、その時代を体験していないから実体験からくる主観的視点に欠けることにも。

当たり前か(笑)
 

とはいえ、その場にいないから臨場感を持った時代の雰囲気が分からない。
 

例えば、歴史が好きな人で戦国時代にロマンを感じるなら、

いろいろと本を読み、知識を得るのがこの上なく楽しいと思う。

僕もそうでした。
 

でも、現代的な感覚でいわゆる血湧き肉躍ったとしても、

「いざ自分がその場にいたら?」

となると、そんなに冷静な視点では語れないことが多いのではないかと。

文献も扱い方次第

歴史を分析するとき、僕たちが圧倒的に頼るのが先人が残してくれた文献の数々。

でも、文献を絶対的な位置に置くと、書いた人の視点や意図(思惑)に縛られてしまうことは多い。

たとえ無意識だったとしても。
 

勝った側は正統性を主張したい。

だから負けた側を悪く言う。
 

それがいつの間にか定着してしまう。

まさにそれが狙いとばかりに。
 

「歴史は勝者によって作られる」

という言葉は本当に的を射ていると思う。
 
 

一つの文献、特に勝った側(支配者層)の書いたものを基準にすると、

「真実という全体像」に大きな欠けがあることに気づかない。
 

そして、

「正統という位置づけがされたもの」

に反するものは異端というレッテルを貼られてしまうことに。

文献を残せる人は全体の一部

江戸時代後期の識字率は全体の7割から9割だったと言われています。

それでも文献という形として残すことができたのは全体の一部の人だったということは容易に想像できる。
 

もっと時代を遡れば、さらに絞られてくる。

つまり、文献はあくまで全体の一部の人(一般的に身分が高い人)が書いたものということになり、
 

もし、

「もっといろいろな身分、階級の人が書いたものが残っていたとしたら、どんな視点で書いてあるのだろう?」

という視点があってもいいのではないかなと。
 

もちろん、そういうものが残っているケースもあるけど、

「信頼性」という最もらしい言葉で「ない」と判断されてしまったり。

幕末のロマンと現実と

戦国時代と同じく人気があるのが幕末です。

大きな時代の変わり目に起こった徳川幕府と維新の志士たちとの戦い。

そこにロマンを感じる人も多いのではないでしょうか。
 

でも、ドライな目で観てみると、幕末の志士たちはいわゆる革命軍。

そして、彼らに武器や資金を援助していたのは外国の勢力。
 

イギリスはアヘンによって清(中国)を骨抜きにしたけれど、

日本には幕末の志士を利用して明治維新を成し遂げさせ、日本の文化や精神性を骨抜きにしたという見方もできる。
 
 

「文明開化の音がする」

というのは明治初期に象徴のように用いられた言葉。

学校でも習った記憶がある。
 

「じゃあ、日本には文明がなかったのか?」

というとそんなことはない。
 

西洋に対して日本が劣っているという意識もまた勝者によって作られたもの。
 

何が真実かというと、結局争いになる。

それは見る人の視点や角度によって、見え方や捉え方が違うから。
 

でも、

「真実という全体像から欠けている部分は何?」

という視点で捉えると、
 

もっと広い視野でいろいろなことが観えてきたり、受け入れやすくなってくる。

言葉は断片的なもの

言葉は断片的にしか表現できないし、

書く人の意図が糸のように読む人の意識を操ってしまうことだってある。

どの意見に好感を持てるかというのも違ってくる。
 

どの文献も全体像の一部であり、ピース(断片)。

それを客観性と主観性のバランスを持って観る。
 

「真実という全体像」を正しく捉えるには、もっと私たちの視点や意識を上げる必要があるようですね。
 
 

P.S.冒頭のこちらの写真は、acworksさんによる写真ACからの写真です。

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使わせていただきありがとうございます。