多賀城跡に秘められた軌跡とは?

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【前回の記事古代東北地方 ヒタカミ(日高見)~青春18きっぷの旅(プロローグ 編)の続きです】
 

古代東北地方ヒタカミ(日高見)の旅で最初に訪れたのは「多賀城跡」
 

多賀城(たがじょう/たかのき)は、

8世紀初め~11世紀半ば(奈良時代~平安時代)までに存在した陸奥国府(役所)や鎮守府(蝦夷に対する軍事拠点)だったと言われている場所です。

当然、ここを訪れる人たちも、陸奥国府や鎮守府だった多賀城の跡地として訪れる人がほとんどでしょう。
 

僕みたいにホツマツタヱに興味があって訪れる人は少数派だと思います。

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(右がヲシテ文字で「たかのき」と書いてあります。)
 

厳密にいうと、多賀城そのものではなく、多賀城付近になるのですが。
 

・トヨケカミ(豊受大神)の本拠地はケタツボ、多賀城付近にある壺の碑(つぼのいしぶみ)辺りだと言われていること。

・アマテルカミ(天照大御神)が祖父トヨケカミ(豊受大神)のもとで、「天の道(トの教え)」という調和の精神に則った生き方や世の治め方を学んでいたのが、ヒタカミの天の宮(アメのみや)であること。

・アマテルカミ(天照大御神)の跡を継いだオシホミミは、近江からヒタカミのケタツボに都を移し、「タカのこう」と名付けたこと。

みこオシホミは

ヒタカミの タカのこうにて

くにをさむ
 

御子オシホミは

ヒタカミの 多賀の国府(こう)にて

国治む

引用:やさしいホツマツタヱ/いときょう著 P31

ホツマツタヱを紐解いていくと、ここ多賀城付近にまつわる物語を、より深く味うことができます。
 

もちろん、陸奥国府や鎮守府だった頃の多賀城にまつわる歴史も非常に興味深くて、学べることがたくさんあります。

築城から廃城まで、時代によりその役割を変えていきましたが、

奈良、平安、鎌倉、南北朝時代と約600年間、東北地方の歴史を見守ってきたことになるからです。
 
 

この記事では、多賀城に関する(一般的な)歴史の物語に加えて、

ホツマツタヱを紐解きながら、多賀城付近に関する縄文、弥生の頃の歴史の物語に触れていきます。
 

何が本当で、何が嘘なのかを追求するより、

僕たちの祖先が残してくれた貴重な資料(ピース)から、

「何を学び、(未来に向けて)どのように活かしていけばいいのか」

という視点で書いていきますね。
 

もちろん、実際に訪れて感じたことも併せて。
 

この記事を読むことで、何かしらの気づきを得て頂ければ幸いです。

東京から多賀城跡がある宮城県多賀城市へ

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さて、今回の「古代東北地方ヒタカミ(日高見)の旅」では青春18きっぷを使って巡ります。
 

「青春18きっぷの旅の何がいいんですか?」

と使ったことがない人は思うかもしれません。
 
 

まず、安いです。

11850円で5日間使えて、乗り降り自由。

5人一緒に1日で使い切るという方法もあります。
 

新幹線や特急は乗車できないので時間はかかりますが、

目的地の観光だけでなく、旅そのものを楽しみたいという人にはオススメです。

もちろん、時間があるというのが前提条件となりますが。
 
 

僕は4月に東京から九州の大分県まで行きましたが、

「あっ、普通列車だけでちゃんと九州まで来れるんだ」

と変な(?)驚きと、実感があります(笑)
 

まあ、どんな旅がいいのかは人それぞれ好みがありますからね。

「へぇー、こんな旅の仕方もあるんだ!」

という参考までに。
 
 

8月13日の早朝、始発にて出発しました。

最寄り駅から秋葉原駅、そして上野駅へ。

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5:32 上野駅で宇都宮線(宇都宮行)に乗り換え、

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7:41 小金井駅で同じく宇都宮線(黒磯行)に乗り換え、

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9:08 黒磯で、東北本線(新白河行)に乗り換え、

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9:59 新白河駅で、同じく東方本線(郡山行)に乗り換え、

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11:06 郡山駅で、これまた東北本線(福島行)に乗り換え、

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12:17 福島駅で、東北本線快速(仙台行)に乗り換え、

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13:31 仙台駅で、東北本線(小牛田行)に乗り換え、

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13:44 国府多賀城駅に到着です。

「乗り換え」の連呼でしたが(笑)、

トータル8回、所要時間約9時間!
 

青春18きっぷで東北を旅するのは初めてなのですが、

「あれっ!?」

と思ったのが、乗り継ぎ時間が比較的長いなと感じたこと。
 

西への旅は何度もありますが、とにかく乗り換え時間が短いです。

特に静岡を超えるのに東海道線を何度か乗り換えるのですが、

ホームからホームへとダッシュで走ることも(笑)
 

それに比べると、今回の東北の旅では短くても11分、長いときは47分もあったりして。

その分、時間がかかるのは確かなのですが、焦るより、余裕があっていいなと思いました。
 

さすがに47分あったときは途中下車(小金井駅)して、ちょこっと散策しましたが(笑)

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さて、話を到着した国府多賀城へ戻しますね。

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多賀城跡は、国府多賀城駅から徒歩15分くらい。

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途中、神社があるので、ご挨拶をしようと行ってみます。

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神紋は五三の桐。

我が家と一緒なので、思わず目に留まりました。

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ご由緒書き。

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御祭神は奥鹽老翁神と奥鹽老女神

ちょっと見慣れないお名前で、記紀にも登場しないようです。

鹽竈神社の御祭神、塩土老翁神(シオツチノオジ)と関係がある神様方??

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正確な創建時期は不明で、神亀元年(724年)の多賀城創建の頃より鎮座し、

多賀城に陸奥国府が置かれていた頃は栄えていたとあります。
 

平時は国府(役所)だったとはいえ、多賀城はもともと蝦夷討伐の軍事拠点として築かれたところ。

当時、多賀城に赴任してきた人たちがどのような気持ちで過ごしていたのか?
 

想像するしかありませんが、戦になれば、いつ命を落としてもおかしくない状況です。
 

日々の無事を祈り、命あることに感謝し、手を合わせていたかもしれません。

故郷にいる両親、妻や子供の無事を祈り、手を合わせていたかもしれません。
 

そんな彼らの精神的支えの1つになっていたのが、この浮嶋神社だったのではないでしょうか。

また、故郷でも赴任した息子のために、夫のために、父親のために、無事を祈り、手を合わせていたかもしれませんね。
 

遠く離れていても、神社という場を通じて、神様を通じて、繋がりを感じていたのではないか。

そんな勝手な想像が脳裏に浮かびます。

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明治天皇の御製(ぎょせい※天皇が詠まれた和歌)もあります。

旅衣 あさたつ袖をふきかへす 松風すゞし 浮島が原
 

明治天皇は乗馬と和歌を好み、そのご生涯でお読みになられた御製(ぎょせい)の数は、

なんと9万3千余首にも及ぶとのこと!

せっかくなので、いくつかご紹介しますね。
 

すなほなる をさな心を いつとなく 忘れはつるが 惜しくもあるかな

遠くとも 人の行くべき 道ゆかば 危き事は あらじとぞ思ふ

世の中に ひとりたつまで をさめえし 業こそ人の たからなりけり

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こちらの鳥居のところにある石碑に先程の明治天皇の御製が刻まれています。

旅衣 あさたつ袖をふきかへす 松風すゞし 浮島が原
 
 

階段を上ると、手水舎とお社がいくつか見えてきます。

境内は、ざっと全体を見渡せるくらいで、あまり広くありません。
 

僕以外誰もいなくて、境内は静まり返っています。
 

「かつて多賀城が陸奥国府だった頃は栄えていた」

という先程の言葉を想い、

目をつむると、参拝する人で賑わっていた様子が浮かびます。
 

街並みは変わっても、神社という場は変わらない。

古来より様々な人たちが手を合わせ、祈りを捧げた場所として。

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手水舎で手と口を清め、

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本殿で参拝します。

この地へ来れたこと、参拝のご縁を頂いたことへの感謝を伝えました。

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御祭神は、贈正一位源朝臣融卿(ぞうしょういちいみなもとのあそんとおるきょう)。

官位が入っているので随分と長いのですが、お名前は源融(みなもととおる)です。

嵯峨天皇の皇子で、紫式部の「源氏物語」の主人公 光源氏の実在モデルの有力候補と言われている方です。

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稲荷神社、通称お稲荷さんといえば、キツネのイメージが強いですよね?
 

キツネをお祀りしていると思っている人もいるみたいですが、

キツネはご眷属(神様の使者)さんです。
 

御祭神は稲倉魂命(うかのみたまのみこと)。

穀物の神様ですね。
 

稲荷神社といえば「ウカノミタマノミコト」ですが、

漢字の表記は、

・「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

・「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
 

こちらで使われている漢字「稲倉魂命」は珍しいかもしれません。
 

まあ、いつも漢字を確認しているわけではないので、

見落としているだけかもしれませんが(笑)
 

稲荷神社、通称お稲荷さんは、ちょっと怖いイメージがあって敬遠していたときもありました。
 

でも、昨年の8月に伏見稲荷神社(稲荷神社の総本社)に参拝してからは、

(こちらの記事です⇒『伏見稲荷へ行きなさい?』

自分の中にあったイメージが変わったんですよね。
 

何がどうというわけではないのですが、あのときの京都の旅がキッカケになったのは確かです。

不思議ですね(笑)

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御祭神は八幡大神(やはたのおおかみ)。

この神様も稲荷神社同様、全国にたくさんお祀りされていますよね。
 

八幡大神は謎の神様。

というか時代によってさまざまな顔があると言った方がいいのかも。
 

・北九州の豪族宇佐氏の氏神様(農業神という話も)として祀られていたのを、大和朝廷の守護神とした

・仏教の守護神と習合して八幡大菩薩となった

・武家の守護神となった

などなど。
 

現在では、

八幡大神=応神天皇

とされていますが、これは奈良時代から平安時代にかけて習合されたようです。
 
 

神仏習合もそうですが、

もともとの神様が違う神様(人間)と同一視されたりするのって、

他の国ではあまりない概念。
 

日本人の得意技(?)ですね。

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少しの時間でしたが、ご挨拶できてよかったです。
 

さて、引き続き多賀城跡を目指します。

歩くこと10分ちょっとくらいでしょうか。

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「史跡多賀城跡」の碑が見えてきます。

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階段を上ると、

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案内図があります。

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思っていたより広くて、様々なセクションに分かれているようです。

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中央(律令)政府の支配の変遷。

宮城(多賀城)から秋田、岩手に広がりながら北上しているのが分かりますね。

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縮尺1/200の復元模型です。
 

広すぎて、写真だと部分的で全体像が分かりづらいので、動画をご覧になってください。

多賀城の歴史をザっと確認!実は、巨大地震の足跡も、、、

多賀城の創建は神亀元年(724年)、

按察使(地方行政を監督する官職)である大野東人(おおの の あずまびと)が築城しました。
 

8世紀初めから11世紀半ばまでの間に、4回の造営が行われましたが、

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第3期(780年~869年)のときに貞観地震(869年)が起こります。

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貞観地震は、マグニチュード8.3以上あったと言われ、津波による被害も甚大だったようです。

『日本三大実録』という史書には、この地震の様子が次の記されています。

五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝洄漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

現代語訳(意訳)

5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、や倉庫・門櫓・牆壁などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

引用:貞観地震-Wikipedia

この文面にある陸奥国の城が多賀城だったのではないか、と推定されています。
 

「千人ほどが溺れ死に」ともありますが、

この貞観地震(マグニチュード8.3以上)の再来が、東日本大震災(マグニチュード9.0)ではないか、とも言われているようです。
 

東日本大震災の死者・行方不明者は1万8429人(令和元年7月9日現在)となっていて、

貞観地震の千人とは桁が違いますが、
 

平安時代の日本の人口密度がおよそ500万人~600万人(現在に比べると正確さに欠ける面があるとは思いますが)

と言われていることを考えると、被害が大きかったことは確かです。
 

この貞観地震の復興から廃絶までが、最後の第4期(869年~11世紀半ば)です。

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蝦夷を支配するための軍事拠点(鎮守府)でもあった多賀城ですが、時代とともに戦線も北上します。
 

平安時代(802年)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行った際、鎮守府は胆沢城(岩手県奥州市)へと移り、

多賀城は後方支援的存在へと変わっていったようです。
 

南北朝時代、建武の新政(後醍醐天皇)のときは、多賀城に東北地方、北関東を支配する「陸奥将軍府」が新政府として置かれます。

多賀城と蝦夷(えみし)の歴史をチョット深堀してみると?

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多賀城にまつわる歴史とは、

中央政府(奈良時代、平安時代)と蝦夷(えみし)の争いの歴史です。
 

僕たちが一般的に知っているのは、中央政府に従わない蝦夷を討伐するという視点で描かれている話。

「未開の地に住む野蛮人」

みたいな(こういう印象操作って無自覚に受け付けちゃうんですよね)。
 
 

でも、蝦夷の視点で見たら、

「中央に政府とやらを作ったからと言って、なぜ従わなければならないの?」

というものだったはず。
 

現代に例えるとすると、

「今まで宮城県で普通に暮らしていたのに、なんで突然、奈良県(京都府)の言うことを聞かなければならないんだ!」

という感じでしょうか(笑)
 
 

中央政府とは中央に権力を集めるために作られるもの。

支配という側面があるのはもちろんなのですが、
 

日本の場合、縄文から弥生、そして古墳、飛鳥時代へ移るに従い、

さまざまな部族(渡来人など)が増え、国が乱れ、

収拾がつかなくなったという背景があります。
 

それまでも支配層(政府)がなかったわけではありませんが、

律令制という本格的な国家体制(中央政府)を作らざるを得なかった状況があったというわけです。
 

と、これは中央政府側の視点ですね。
 
 

「どっちが正しいんだ?」とすると正解はなくて、

どちら側の視点もあるということです。
 

で、蝦夷という定義もあまりハッキリ定まってなくて、

例えば、大和朝廷の頃は関東地方、東北地方、北海道だったのが、

近世以降は、アイヌ(北海道、樺太、千島列島、カムチャッカ半島南部)を指すようになります。
 

時代とともに、支配を広げていったわけですから、

「中央政府の支配範囲によって変わってくる」

というところでしょうか。
 

簡単にいうと、中央政府より東(または北)の地域の反勢力が蝦夷。
 
 

ところで、

多賀城が鎮守府(または陸奥国府)として機能していたころの蝦夷はどのような人たちだったのか?
 

近世以降はアイヌ民族のことを指していましたが、もとをたどれば縄文人か弥生人。
 

ただ、縄文人、弥生人というと全く違う民族のように思ってしまうのですが、

日本民族が、もともと日本にいた先住民(縄文人)と渡来人という2つの系統から成り立っているとすると、

そんなに単純にバッサリ分けられるものではないのかなと。
 

時代によって、もともと日本にいた縄文人と渡来人の混血の度合いが違っていただけなのだと思います。
 

縄文から弥生に変わるころは、渡来人がたくさんやってきたので、

縄文人、弥生人のように強調されやすいというところではないでしょうか。
 

ちなみに、縄文から弥生に変わるころ、中国は春秋戦国時代という戦、混乱の真っただ中。

戦乱から逃げて来た人たちが大量に日本にやってきたという可能性もありますね。
 
 

多賀城に鎮守府があった頃の蝦夷も、縄文人や弥生人の流れをくむ人たち。

ホツマツタヱで東北地方がヒタカミと呼ばれていたのは、縄文時代から弥生時代の頃です。
 

前記事(エピローグ編)でも少し触れましたが、

クニトコタチの八人の王子の1人、タノミコトが国を開き、初代タカミムスビとなり、

5代目がトヨケカミ(豊受大神)です。
 

中央政府が徐々に衰退していく一方で、ヒタカミは繁栄します。

そして、

イサナキ(伊邪那岐命)、イサナミ(伊邪那美命)というタカミムスビの系統の血を引く2人を夫婦とし、

アマカミ(天皇)として擁立することで、中央政府断絶の危機を救うのです。
 
 

しかし、時代は下ると、ヒタカミの人たちは「ヱミシ(蝦夷)」と呼ばれるようになります

ヤマトヲシロワケ(景行天皇)から、

ホツマ(東海から関東)より北の国の様子を調べるように詔(みことのり)を受けたタケウチ(武内宿禰)は、

帰国後にこう伝えました。

ヒタカミは メヲノコかみを

あげまきに みをあやどりて

いさみたつ すへてヱミシの

クニこえて まつろはざれば

とるもよし
 

「日高見は女男が皆髪を

総角(揚巻)にして、身を綾取りて

勇み立っています。すべてのヱミシの

クニは肥えていますので、服従しなければ

征服するのも良いかと思います。」

引用:やさしいホツマツタヱ ミハタの三十八ー四十 P38-P39/いときょう著

かつて繁栄し、中央政府の危機を救ったヒタカミの地は、

中央政府から敵地とみなされるほど、様変わりしてしまったのです。

縄文から弥生にかけて時代の移り変わりの大きさが、この一文からも感じられます。
 
 

多賀城が軍事的拠点の中心から後方支援的存在となったのは、

平安時代初期の延暦21年(西暦802年)の坂上田村麻呂の蝦夷征伐のとき。
 

戦線は北上して、多賀城から胆沢城(岩手県奥州市)へ。

このときの蝦夷の指導者が阿弖流為(アテルイ)です。
 

阿弖流為(アテルイ)は巣伏の戦いで朝廷軍を撃退しますが、

坂上田村麻呂が胆沢城を築くために派遣されると、朝廷軍にたて続けに敗北。
 

阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)は500人余りを率いて降伏します。

(※盤具公母礼(モレ)は副将のような存在だったと言われています。)
 

坂上田村麻呂に付き添われて、平城京へ上京することになった阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)。

坂上田村麻呂は2人の命を救うために助命嘆願します。
 

しかし、公卿の反対にあい、阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)は河内国にて処刑されました。
 
 

この阿弖流為(アテルイ)の降伏、処刑をもって、

ヒタカミ(古代東北地方)は滅亡したとみなしてもいいと思います。
 

というのも、この後に東北地方で起こった「前九年の役」や「後三年の役」は出羽国の清原氏、陸奥国の安倍氏といった豪族同士の争いになるからです。

この戦の結果、登場するのが平泉・中尊寺で有名な奥州藤原氏となります。

何が正義で、何が悪なのか?

歴史書というものは、どうしても正義と悪という二分された描かれ方をします。
 

それが間違っているというより、そもそも歴史書とは、

勝った側の正統性を主張するために記されるものがほとんどだからです。
 

でも、受け取る側(僕たちのような)は、ほぼ無造作にそれを受け取ってしまいます。
 
 

日本の歴史を大きな流れで見ると、
 

①縄文人⇒縄文時代

②縄文人と少数の渡来人と両者の混血

③縄文人と大量の渡来人と両者の混血⇒縄文時代から弥生時代へ

④弥生人と少数の縄文人と両者の混血⇒弥生時代から古墳、飛鳥、平安時代へ、、、
 

こんな感じになるのではないかなと。
 

どこに視点を置くかで、正義も悪も変わってきます。

数が優勢な方を起点とすると、
 

例えば、

上記の①②は縄文人が平和に暮らしていたころで大きな問題はありません。

③になると、縄文人にとって、大量の渡来人は敵となります。

これによって国が大きく乱れたのですから。
 

でも④になり弥生人が優勢になってくるに従い、今度は逆に縄文人が敵となります。

新たな秩序に従わない奴らとみなされて。
 

もちろん、これは単純に縄文人、弥生人と分けられるものではありません。

実際はもっと複雑に絡み合っているでしょうから。
 
 

何をもって日本人(民族)とするのか?

と問うたときに、

ハッキリと定義することは難しいです。
 

ただ、単一の民族で成り立っていないということは確かです。
 

縄文から弥生に変わるころは大量の渡来人がやってきたから、

縄文人、弥生人とことさら強調されますが、
 

飛鳥人、平安人、奈良人、鎌倉人、、、

僕たちのことを令和人とは呼びません(笑)

もしそう呼ぶとしたら、僕は昭和人、平成人、令和人と時代によって名称を変えていることになります。
 
 

時代による呼び方は、後世の人たちが定義付けしたものに過ぎず、

概念としてあるだけで、実際はそんな枠組みがあるから、
 

正義と悪のような図式ができて、

偏った視点でしか歴史を捉えることができなくなっているのではないでしょうか。
 
 

日本は島国です。

他の陸続きの国に比べると、征服、侵略をされにくいという恩恵はあります。
 

でも、されにくいというだけで、危機がなかったわけではありません。
 

縄文から弥生のときに大量の渡来人がやってきたときも、

明治維新のときに大量の外国の文化や思想が入ってきたときも、

無差別の空襲を受け、原爆を落とされ、戦争に負けたときも、
 

脅威にさらされ、失ったものもたくさんありましたが、

根本となるもの、ヤマトの心、大和魂を失うことはありませんでした
 

まだ完全に取り戻したわけではないのでしょうが、

そこに立ち返ろうとしているのが今という時代なのかなと思います。
 

大和魂というと根性論のようなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、

根本にあるのは調和の精神、縄文の精神です。
 

「ホツマツタヱ」には、その縄文の精神が記されています。
 
 

先程の動画を見ていただいた方は分かると思いますが、多賀城跡と呼ばれるだけに、

本当にガランとして何もありません(笑)
 

でも、その何もない地を何度も行ったり来たりしていました。

かつて、この地で起こったであろう出来事に想いを馳せ、じっくり、ゆっくりと踏みしめるように。
 

役所としての仕事をしている人、

故郷に残してきた家族を想い、和歌をしたためている人、

雄たけびを上げて、戦をしている人たち、、、
 

今は亡き人たちの当時の営みと息吹が蘇ってくるようでした。

国内100社の神様を合祀する陸奥総社宮へ

多賀城跡を訪れるにあたって、もう一か所行ってみたいと思っていたのが、

陸奥総社宮です。

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こちらの神社、ちょっと普通の神社とは違っている点があります。
 

主祭神は八塩道老翁神八塩道老女神の二柱をお祀りしていますが、

陸奥国内31群の式内社100社の神様を合祀しているからです。
 

だから「総社宮」と名前に付けているのでしょうが、

なぜそんなにもたくさんの神様を合祀しているのかというと、
 

古代において、国司は赴任した国内の神社を巡拝することが任務とされていて、

それを効率化するためというわけです。
 

ちょっと、手抜きじゃない?(笑)

とツッコミたくなる人もいるかもしれませんが、
 

国司には当然、日々の仕事がありますし、

国の領域も広くて、たくさんの神社があるところだってあったでしょう。
 

現に、ここ陸奥総社宮は100社もの神様を合祀しているわけですから。
 

また、多賀城のように国府(役所)であると同時に、

蝦夷討伐のための軍事拠点だったところもあるわけです。
 

忙しい日々の合間をぬって、参拝できるという知恵といった方がいいのかなと思います。
 

まあ、仮に現代で例えるとすると、

千葉県のお役所勤めの人が、千葉県にある全部の神社を巡拝する任務を仰せつかっているようなものです。
 

神社巡拝だけをしているのならいいですが、日常のお仕事に加えてですから(笑)

そう考えると、お気持ちお察しします、という感じになりますよね。

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なぜか狛犬のところに石がたくさん積んでありました。

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手水舎で手と口をすすぎ、

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この地に来れたことへの感謝を伝えました。
 

境内はほとんど人がいません。

ひっそりと、静かに、誰かが来るのを待っているかのように。

シーンと静まり返った境内に、時折カラスの鳴き声が聞こえるくらい。
 

誰もいない神社で佇んでいるのが結構好きな僕は、

ボーっとしたり、時折、境内をぶらぶらしたり。
 
 

しばらくすると、

近所に住む親子でしょうか。

父親と幼稚園くらいの男の子がやってきて、参拝していました。
 

その後に、こちらもおそらく近所の方だと思いますが、

年配の男性がやってきて静かに手を合わせていました。
 
 

こんな感じで、1人、また1人と多賀城へ赴任してきた国司の人たちも参拝にきたのかもしれません。

仕事の前か、昼休みか、仕事帰りかは分かりませんが、

神社にいらっしゃる神様たちは、参拝に来る人達を快く受け入れてくれたのでしょう。
 

昔も今も変わらずに。

壺の碑(つぼのいしぶみ)へ~ホツマツタヱで分かる「つぼ」に込められた深い意味とは?

スマホを見ると、そろそろ仙台に戻らなければならない時間が近づいています。

来た道を戻り、最後に多賀城碑(壺の碑)の場所へ。

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碑文には、

・京(平城京)から多賀城までの距離

・大野東人が多賀城を設置したこと

・藤原恵美朝狩が多賀城を修造したこと

・碑を建てた年月日

が記されています。
 

「壺の碑(つぼのいしぶみ)」は歌枕に出てくる名所です。
 

松尾芭蕉が、この碑と対面した感動を「おくのほそ道」にこう書き残しています。

「行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり」
 

また、西行は、

陸奥(みちのく)の おくゆかしくぞ おもほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風

という歌を詠んでいます。
 
 

しかし、ホツマツタヱを紐解くと、

「ツボ」のさらなる意味を読み解くことができるのです。
 

ホツマツタヱでは、

「ツボ」を祭りごと(政治)の中心地という解釈をします。

カナメである場所、すなわち都のことです。
 
 

古代には三つの「ツボ」があったとされています。

・ケタツボ・・・多賀城付近

・ハラミツボ・・・富士山本宮浅間大社付近

・オキツボ・・・琵琶湖南西岸の日吉大社にある八王子山
 

ここ多賀城付近はケタツボ。

古代東北地方ヒタカミの首都であり、

5代目タカミムスビであるトヨケカミ(豊受大神)の宮だったのではないかと思われる場所。
 

すでに書きましたが、

トヨケカミ(豊受大神)の娘がイサナミ(伊邪那美命)で、

同じくタカミムスビの系統(2代目)アワナギの息子がイサナキ(伊邪那岐命)であり、

その子供がアマテルカミ(天照大御神)です。
 

中央政府の断絶の危機を救ったのがケタツボ(ヒタカミの首都)を都とするトヨケカミ(豊受大神)で、

イサナキ(伊邪那岐命)とイサナミ(伊邪那岐命)、アマテルカミ(天照大御神)という皇統を繋げた存在だったとしたら?
 

この多賀城付近、そしてここ壺の碑(つぼのいしぶみ)の「ツボ」はとても深い意味をもっていることになります。
 

「だったとしたら?」

とあえて書いたのは、当然、その可能性があるとしか書けないからです。
 

「書物に記されているから真実だ!」

というのは簡単ですが、

ぶっちゃけ本当のところは分かりません。
 
 

ただ、

ヲシテ文字という神代文字(古代文字)で記され、

五七調という文体で綴られているこの書物が伝えることが、

単なる作り物とは思えないと感じるのです。
 

ハッキリ言って、100%正しい書物なんて存在しないと思っています。

人が書く以上、視点が公平性を欠くことは当然あるし、

「真実という全体性」を言葉で表現することは不可能だからです。
 
 

今みたいにタイムリーにSNSで発信できないし、

言い伝えが、どこまで詳細に伝わっているのかも「?」です。
 

これは古事記、日本書紀など、全ての書物において言えること。
 

しかし、ホツマツタヱに記されていることは、

貴重な真実への断片(ピース)ではないかと感じています。
 

「絶対正しい」を押し付けるものではなく、

真実へと至る貴重な断片(ピース)として。
 
 

ハッキリ言って、どの書物が正しいかなんて、正直どうでもいいし、

自分の説の正しさを証明したいとも思わない。
 

僕が知りたいのは、

「学門」という狭い塀の中で正しさを主張するような閉ざされたものではなく、

「学問」という常に問い続けるものだから。
 

問い続けるという「スキマ」を持っていれば、

本来のカタチ、

「全体性という真実」に近づけるのではないかなと。
 

そんな想いを胸に、旅を続けます。
 

まだまだ旅は始まったばかり。

次に向かった鹽竈神社では、思いがけない感動に包まれる体験をすることに!

 

この記事では、ホツマツタヱ研究家 いときょう先生から学んだことや、

先生の「ホツマツタヱ」に関する書物を参考にさせていただいております。
 

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初めての方(ホツマツタヱについて何も知らない方)は、「古代史ホツマツタヱの旅」シリーズがオススメです。
 

こちらの書籍は、いときょう先生がホツマツタエに記されていることをもとに、

各地の神社を参拝した旅の様子がとても分かりやすく書かれています。

ホツマツタヱについての予備知識がなくても、楽しめる内容となっています。

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ヲシテ文字、カタカムナ文字、甲骨文字などの文字からナスカの地上絵まで、古代から存在する様々な文字や絵がある兆形(まちがた)から生まれたこと、そこには古代人の思想が反映されていることなどが載っていて大変興味ですよ。

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