訪れる度に深みを増す伊勢の旅ー5(月読宮・月夜見宮編)
謎多き神様「月読命」をもう少し深堀してみよう!
【(前記事)訪れる度に深みを増す伊勢の旅ー4(伊勢神宮内宮編)の続きです。】
月夜命(ツクヨミノミコト、ツキヨミノミコト)と言えば、
天照大御神の弟で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の兄。
「古事記」「日本書紀」にもほとんど登場しないので、
他の二人の兄弟(天照大御神、素戔嗚尊)に比べると控えな印象があります。
でも、、でも、ですよ。
「書物に載っていないだけなのでは?」
という見方もできなくはありませんよね。
もしかしたら、見えない(目立たない)ところで活躍していた、ということだってありえますから。
天照大御神が太陽の神様で、
月夜命が月の神様ということをご存知の方は多いと思います。
昼に、まばゆく照らす太陽に比べると、
夜、静かに柔らかく包み込むように照らすのが月。
実際の月読命もひっそりとですが、
目立たないだけで重要なお役目をこなしていたのかもしれません。
この記事では、
古事記、日本書紀には載っていない、
ホツマツタヱで記されている「月読命」についても触れてみたいと思います。
神話、歴史書というのは、あくまで断片的な情報なので、
「何が真実か?」
というのを探るのはどうしても限界がありますが、
情報の断片(ピース)が増える事で、視野が広がるのは確かです。
別宮を参拝して感じたことと合わせて、僕が感じた月読命を書いていきますね。
断片的な情報(ピース)から読み解く月読命像とは?
月読命の登場する場面は本当に少なくて、
古事記では、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉の国から逃げかえってきて、禊をしたところだけ。
左目を洗い、天照大御神が、右目を洗い、月読命が、鼻を洗い、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が産み出されたという場面ですね。
このお話は意外と知っている方もいるのではないでしょうか?
実は「日本書紀」には、このようなお話が載っています。
「引用が長くて、難しい!」と思った方は、引用後の簡略した説明を読んでくださいね。
書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。
一方、古事記では同じ展開で食物の神(大気都比売神・おほげつひめ)が刺されるが、それをやるのは須佐之男命である(日本神話における食物起源神話も参照)。この相違は、元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。
引用が長いので、簡単にまとめますね。
天照大御神に保食神(うけもち)に会いにいくように命じられた月読命は、
保食神(うけもち)が口から出した食物でもてなそうとしたことに腹を立て、切り殺してしまいます。
ツクヨミの凶行を知ったアマテラスは、「お前は悪しき神だ!」と怒り、
それ以来、日と月が分かれ(日月分離)、それが昼と夜の起源になりました。
また、保食神(うけもち)の死体からは牛馬や蚕、稲などが生まれ、これが穀物の起源になったというわけです。
「古事記」では、これと似たような話があるのですが、月読命が素戔嗚尊(すさのおのみこと)に、保食神(うけもち)が大気都比売神(おおげつひめ)となっています。
これを読んで、
「口から食物を出すというのが、いかにも神話っぽいよなぁ」
と思った人もいるかもしれません。
ちょっと、違う角度から見てみましょう。
見方を変えると、理解も深まりますよ。
「ホツマツタヱ」では、このお話はどのように描かれているのでしょうか?
簡単にご説明しますね。
6代目アマカミ(天皇)オモタル・カシコネの時代になると、稲の実りが悪くなってきました。
8代目のアマカミ(天皇)であるアマテルカミ(天照大御神)はツキヨミをウケモチがいるナカクニへ遣わします。
ツキヨミが稲の種籾をもらおうと、着いたところに肥溜がありました。
ツギオケ(飯を炊くことができる土器のようなもの)の口より米を炊いていて、
農地へ向かうと農民が作物に肥料をかけています。
手籠に入れて持ってきたスズナで作ったスズナ汁を注ぎ、ウケモチは宴を開くのですが、
ツキヨミは「何と卑しきものを!唾を吐きたくなるような穢れだ!」
と剣を抜いて、 ウケモチを殺してしまうのです。
それを知ったアマテルカミは「汝は善悪の判断ができないのか!」と怒ります。
ツクヨミは政から外され、夜だけ宮に来ることになってしまうのです。
アマテルカミはナカクニへ遣いを出します。
ウケモチは亡くなっていましたが、息子のカダは稲の種籾をくれました。
その種籾を植えると秋には豊かに実り、国は豊かになったというわけです。
「ホツマツタヱ」で描かれていることから判断すると、、、
作物を作るのに肥料を使うことを知らなかったツキヨミが、
宴で出された料理を汚らわしいと怒り、ウケモチを殺してしまったということになりますね。
庶民の暮らしや生活を知らない貴人だったと言えば、
それまでですが悲しい結末となってしまいました。
アマテルカミにしてみたら、食糧難対策のためにツキヨミを遣わしたわけです。
そのツキヨミが肥料のことを知らなかったとは言え、
相手を切り殺してしまうという行為に出たら怒るのは当然と言えば当然かなと。
ただ、アマテルカミも「肥料」のことは知らなかったのでしょうか?
確かにツキヨミの行為は罰するのに値するものですが、
もし知っていたのなら一言教えてあげてもよかったのでは?と思います、個人的には。
でも、アマテルカミは農地での民の様子を見せて、
学ばせるためにツキヨミをあえて遣わしたのかもしれません。
自分勝手な想像をつらつらと書いています(笑)
ホツマツタヱで描かれていることから判断しても、
ツキヨミはこの後、政(まつりごと)の表舞台から姿を消したということになります。
でも、このエピソードだけでツキヨミという人物を判断してしまうのも可哀想かなと。
ホツマツタヱには、ツキヨミについて次のような話が記されているからです。
伊予・阿波二名の国(四国)が収まらなかったので、ツキヨミが派遣されたところ、
民はみな元気になり、四国トの宮にてツキヨミが政治を行うことになった。
優秀で人望篤い長男アマテルカミ、ヤンチャでバイタリティ溢れる三男ソサノヲ。
この対極とも言える二人の間で、ツキヨミは影を潜めているような印象もありますが、
実際は能力・手腕があったのだと思います。
「古事記」「日本書紀」「ホツマツタヱ」などの書物には記載が少ないですが、
見えない(目立たない)ところで、持ち前の手腕を発揮していたという可能性だってあります。
書物に記載がある=活躍した人
書物に記載がない=活躍していない人
という判断しかできないのであれば、
下世話な話、週刊誌や雑誌、TVに取り上げられたか、
そうでないかというのと同じになってしまいます。
日本は長い長い歴史がある国です。
どれだけの人がこの国で生きて、死んでいったのでしょう。
書物に取り上げられなくても、この日本に貢献した人は数知れないくらいたくさんいるはず。
そもそも貢献という尺度も(書物に記載する、しないなど)、後世の人たちが考えた基準に過ぎません。
例えば、戦国の世なら、戦で手柄を立て出世した人(武将など)は評価され書物に名を残すでしょう。
じゃあ、その家来たちは手柄を立てなかったの?
領地の農民は?
彼らが育てた作物が国を治める武将の命の糧となり、
家来の奮闘(戦で亡くなった方もたくさんいるでしょう)があったからこそ、武将は出世できたのです。
全ての人が、その時代で自分の役割を果たしていき、
一部の人は書物に名を残し、後世に語り継がれていく。
書物は、あくまで、それが語り継がれてきたことや書いた人の記憶にある物語を書き記したもの。
後世の僕たちには貴重な資料であり、ヒントになることは間違いではありませんが、それが全てではないはずです。
ツキヨミは、外宮、内宮の両方の別宮で祀られています。
アマテラスの弟ということもあるとは思いますが、
2つのお宮で祀られていることから見ても、重要な存在だったという見方もできるのではないでしょうか。
縁の下の力持ちとして、影で政(まつりごと)を支えていたのかもしれません。
でも逆に、失意のうちに早く亡くなっていたのではという悲しい想像をしたりもします。
月夜見(つきよみ)の「夜見」は「黄泉」と取ることもできますしね。
また、書物にある通り表舞台から姿を消して、蔭でひっそりと暮らしていたのかもしれません。
実は、そう感じる理由がもう一つあるのです。
ホツマツタヱには、ツキヨミの息子のイフキヌシの話も出てきます。
優秀で能力が高く、アマテルカミからも信頼されていたようです。
そのイフキヌシの奮闘や行動を見ていると、登場こそしませんが父ツキヨミのことが何となく浮かんできます。
イフキヌシについてのお話に少し触れてみましょう。
ツキヨミは、イヨツヒコの娘であるイヨツヒメを娶り、イフキヌシが生まれます。
イフキヌシは人心の乱れにより起こる反乱を鎮めるために、アマテルカミに付き添って戦い功を上げた人物。
ある時、アマテルカミの命を受けイフキヌシがサホコの国へ向かったときのことです。
出雲路にただずむ下民がいました。
笠も蓑も剣も投げ捨てて、大きな眼から滝のような涙を流して、何かをつぶやいています。
叔父であるソサノヲ(素戔嗚尊)です。
人心の乱れによる騒動を起こしたのは、自分の奢った心が元になっていると悟ったソサノヲが悔やみの涙を流していたのです。
イフキヌシは、叔父であるソサノヲの過ちを祓おうと歌を歌います。
それを聞いたソサノヲは涙を流し、それを見たイフキヌシも共に涙を流すのです。
そして、「私と一緒に反乱を鎮めれば、忠誠を尽くしたことになるでしょう」とソサノヲと共に戦い、見事、反乱を鎮め、ソサノヲはアマテルカミから「ヒカワノカミ」の称号を賜ります。
「古事記」や「日本書紀」では八岐大蛇退治として表現されているのが、このお話です。
また、八岐大蛇のお話は川の氾濫を鎮めたという解釈もあります。
いろいろな見方がありますよね。
正解を求めるより、視野、許容範囲を広げていきましょう。
イフキヌシはホツマでもウツロヰ、シナトベ、ミヅハメなどの自然神を自由に呼べたというお話があります。
持ち前の能力を発揮して功績も上げますが、後々、荒ぶる神として畏れられるようになるのです。
実は、「ホツマツタヱ」が編纂されたのは、ヤマトタケ(日本武尊)の遺言によるものだと言われていて、
ヤマトタケが亡くなる原因にイフキヌシが関わっていると記されています。
先日、愛知県でヤマトタケ(日本武尊)に縁のある神社へ行ったのですが、このお話はその記事に書きますね。
また、イフキヌシは有名な大祓詞(おおはらえのことば)に祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一柱(気吹戸主・イブキドヌシ)としても登場しますので、「ああ、あの気吹戸主(いぶきどぬし)のことか!」と思った人もいるかもしれません。
大祓詞は、特別で強い祓いの効果がある祝詞と言われています。
この祓戸大神(はらえどのおおかみ)には瀬織津比売(せおりつひめ)も名を連ねますが、イフキヌシ(気吹戸主)の存在感の大きさをここからも知ることができます。
そして、この大祓詞はホツマツタヱを読み解くと、そこに隠された深い意味を知ることもできるのです。
また別の記事で改めて書いてみたいと思います。
もしかしたら、イフキヌシは政(まつりごと)の表舞台に出られなくなった父ツキヨミに代わって、
功を上げたいと強く思っていたのかもしれませんね。
また、下民に落ちぶれたしまった叔父のソサノヲに、政(まつりごと)から遠ざけられてしまった自分の父を重ね合わせていたのかもしれません。
イフキヌシが娶ったのが、アマテルカミのお后の一人、ハヤコが産んだ宗像三女神で有名なイチキシマヒメ(市杵嶋姫命)です。
宗像三女神と言えば、古事記や日本書紀で、天照大神と素戔嗚尊が誓約をした際に、
天照大神から生まれた三姫ですが、このお話もホツマツタヱを紐解くと、また別の見方ができて興味深いですよ。
須原大社(すはらおおやしろ)という神社をご存知ですか?
今回、外宮の別宮である月夜見宮へ参拝した帰りに、たまたま見かけて、何となく氣になったので入ってみました。
ここに祀られているのが、この誓約の際に生まれた五柱の男神と三柱の女神だったのです。
須原大社の記事にて詳しく書いていきますね。
外宮の別宮である月夜見宮を参拝
世木神社、外宮、猿田彦神社、内宮の参拝を終え、
次は神宮の外にある別宮を回りました。
伊勢神宮と言えば、
外宮と内宮の正宮(豊受大神と天照大御神が祀られているお宮)の存在が大きくクローズアップされますが、
その他、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社を含む計125宮社からなっています。
果たして、これを全部回った方はいるのでしょうか?
いたらスゴイですよね!
とても1回の旅では回り切れません(笑)
もしかしたら、何回かに分けて廻った強者の方がいるかもしれませんね。
ほとんどの方が、外宮、内宮と合わせていくつかのお宮やお社を回るくらいだと思います。
この日、僕が回ったのは別宮の月夜見宮、倭姫宮、月読宮です。
僕もうろ覚えだったのですが、
月読命を祀っている別宮は「月夜見宮」「月夜宮」の2つあるんですよね。
「月夜見宮」は外宮の別宮で、「月読宮」は内宮の別宮となっています。
両方とも読みは「つきよみのみや」です。
内宮の後は、内宮の別宮である「月読宮」の方が近いのですが、
外宮の方に用事があったため、外宮の月夜見宮から参拝しました。
外宮(豊受大神宮)の別宮である月夜見宮は、外宮北御門から西へ伸びる「神路通り」の先にあり、距離としては300mくらい。
御祭神は、月夜見尊(つきよみのみこと)、月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)です。
内宮(皇大神宮)の別宮である月読宮では別々の社殿でお祀りしていますが、
こちらは一つの社殿で合わせてお祀りしています。
御神域内へ足を踏み入れると、たくさんの木々に囲まれて、静かで荘厳な雰囲気を漂わせているのを感じます。
荘厳と言っても、決して重々しいわけではなく、どこか柔らかさを感じられるような不思議な感覚。
ただ静かに、優しく闇夜を照らす月のように。
御神気に触れていると、心が自然と静寂に包まれてきます。
ただ周囲や音が静かだからというわけではなく、
「この静けさはなんだろう?」
と思ってしまうくらい内面的な静けさを感じていました。
外宮とも内宮で感じた御神気と違い、ただ心が鎮まりかえっていくような感じでしょうか。
手を合わせても、「ありがとうございます」の言葉しか出てこなくて、
静寂さに、ただ心地よく身を任せていました。
境内には摂社の高河原神社もあります。
「ご祭神は月夜見尊御魂(つきよみのみことのみたま)」
となっていますが、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)や国生神ではないかという説もあるようです。
内宮(皇大神宮)別宮の月読宮へ
月夜見宮を参拝した後、須原大社(すはらおおやしろ)、倭姫宮、内宮の別宮の月読宮へと順に参拝しました。
参拝した順番は逆になってしまうのですが、同じ月読命が祀られていることもあり、
先に内宮の別宮の月読宮を参拝したことを書いていきますね。
月読宮は、内宮から歩いて約20分、外宮からだと約45分くらいです。
今回は内宮からいったん外宮に戻り、月夜見宮から歩いたので結構ありました。
途中、須原大社、倭姫宮に寄っているので、正確な時間は覚えてません。
倭姫宮に立ち寄った後、月読宮へと到着です。
鳥居をくぐり、ゆっくりと御神域内を進みます。
「ん?」
先ほどの月夜見宮とは、どこか雰囲気が違います。
あの厳かな静けさをもっと柔らかくした感じでしょうか。
月夜見宮が社殿が一つだったのに対して、こちらの月読宮は社殿が四つあります。
向かって右から、
・月讀荒御魂宮・・・御祭神 月讀尊荒御魂(つきよみのみことあらみたま)
・月讀宮・・・御祭神 月讀尊(つきよみのみこと)
・伊佐奈岐宮・・・御祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
・伊佐奈彌宮・・・御祭神 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
となっていて、月讀尊の祖神(おやがみ)である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)も祀られています。
てっきり、月讀尊だけかと思っていた僕は、ここで伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祀られているのを知ると嬉しくなりました。
国産みをしたお二神として有名ですが、「ホツマツタヱ」を知ってからより身近に感じるようになっていたからです。
これも見方が増えたおかげですね。
月夜見宮と比べると雰囲気が柔らかく感じるのは、祖神(おやがみ)であるお二神がご一緒だからなのでしょうか。
厳かな感じはありつつも、全体的に温かく包み込むような御神気を感じました。
神宮の公式サイトによると、右の月読荒御魂宮、月読宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の順番にお参りするのが一般的だそうです。
それを知っていたわけではないのですが、なんとなく右から順番に参拝しました。
順に手を合わせていると、厳かな感じが、徐々に和らいでいきます。
伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮は、やはり月讀尊とは違く、もっと温かく包み込むような御神気を感じました。
手を合わせ、伊勢に来られたこと、参拝させていただけたことへの感謝を伝えます。
「古事記」や「日本書紀」、「ホツマツタヱ」にも、このお二神(伊邪那岐、伊邪那美)と月讀尊がどのような会話をしたのかは載っていません。
当然、親と子の間でさまざまな会話があったと思います。
それを知る由もないですが、こうして同じ御神域内に並んでお祀りされているのを見ると、どこか温かな気持ちになってきますね。
書物にはあまり登場せず、謎が多いと言われているツキヨミだから尚更そう感じるのかもしれません。
アマテルカミ(天照大御神)、ツキヨミ(月読命)、ソサノヲ(素戔嗚尊)の三兄弟には、優秀な長男、控えめな次男、やんちゃな三男というどこか現代でもありそうな兄弟像が重なります。
兄弟だからこそ、すれ違いもあり、分かり合えなかったことがあるのかもしれません。
ツキヨミ(月夜命)、ソサノヲ(素戔嗚尊)もアマテルカミ(天照大御神)を怒らせ、左遷、または追放されたのは同じですが、書物上で判断する限りは明暗は分かれます。
ソサノヲ(素戔嗚尊)は天照大御神の天岩戸隠れの原因を作り、追放され下民になっていますが、
反乱を鎮めたこともあって、後に許され出雲の発展の先駆けとなりました。
一方、ツキヨミ(月読命)は許されず、表舞台から姿を消しました。
その差は一体なんだったのでしょうか。
アマテルカミ(天照大御神)は、ツキヨミ(月読命)が稲の種籾を分けてもらい、国を救ってくれる恩人となるはずだったウケモチ(保食神)を殺してしまったことが余程許せなかったのかもしれません。
そして、何の罪もないのに殺されてしまったウケモチ(保食神)へのせめてもの償いだったのかもしれません。
僕たちは書物を通して、古代に存在していた神々(ご先祖様)のお姿を垣間見ます。
でも、神社という御神域に身を置き、日常で使っている思考が鎮まってくると、
そこにいらっしゃる神様と無言の会話をしているような感じにもなります。
そのとき言葉に出来なくても、感じ取っている「何か」が大切なのでしょう。
今ここで気づかなくても、時間を置いて気づくこともあり、再度来たときに気づくこともあります。
神社は時空を超えて、神々(ご先祖様)と交流する場所。
実際にどうだったのかという歴史の答え合わせに終始せず、
これらの物語から、そこから自分が感じたことから、
「何が学べるのか?」
「これからの未来のためにどう活かせるのか?」
を見据えていきたいですね。
そんなことを思いながら月読宮を後にしました。
次の記事では、須原大社について書いていきます。
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