答えは1つではないという視点

つくづく思います、歴史って奥が深いなあって。

これまでも「何とか真実を明らかにしたい」という情熱ある方々が研究や思索を重ねて、
様々な解釈がなされてきました。

ただ、その時代を生きていないので、
ぶっちゃけ「何が真実なのかは正直分からない」って僕は思います(まあ、身も蓋もない言い方ではありますが)。
 

だから「何が真実なのか?」というより、

「そこから何が学べるのか?」
「そこから日本や世界の未来のために、または自分の人生のためにどのように活かせるのか?」

ということの方が大切なのではないかなって(ただ、明らかに違うとされてきた事実に対してはしっかりと検証する必要があるとは思いますが)。
 

「答えは1つではなく、様々な角度や視点によって違ってくるもの」
という感覚が分かってくると、物事を複合的に立体的に捉えられるようになってくるからです。

そして、一方的な情報を鵜呑みにせず、より客観的に、俯瞰的に捉えられるようになり、
人生が、日常の捉え方が変わってきます。

「歴史を知る」という面白さと難しさ

神社も歴史も学生時代は全く興味がありませんでした。

というより、勉強はテストのため、受験のためにしていたというありきたりな学生時代だったのです。
 

そんな僕を変えてくれたキッカケは読書。

20代半ばくらいから読書の面白さを知り、様々な本を読むようになったのです。
 

その中で興味をもったのが外でもない「日本」のこと。

先人たちの生き様とか裏にある壮大な背景とかを知り、

「歴史ってこんなに面白かったんだ!」って。
 

僕が読んだ本の中には学校の授業では決して知ることが出来なかったことがたくさんありました。

テレビや新聞だけでは知ることができないことも。
 

もちろん「何が真実なのか」を判断するのは簡単なことではありません。

というか、どの角度、どの抽象度で歴史を観るのかによって全然違うからです。

つまり、学校のテストのように答えが1つではないってことです。
 

例えば、戦があったとき、双方それぞれに大義名分があります。

で、戦が終わった後、勝った側と負けた側の言い分(主張)があったとしますよね。

さて、どっちが大きな影響力を持つでしょう?
 

当然、勝った側ですよね。

で、負けた側の言い分はなかったことにされたり、嘘だと言われたり。
 

でも、例えばですが、兄弟喧嘩や学校で喧嘩があった場合、
親や先生は双方の言い分を聞いたりしませんか?

「何があったの?」
「喧嘩の原因は何なの?」
という感じで。
 

親や先生は喧嘩の原因は双方の行き違い、それも多くの場合、
他愛もないことだってことを知っているからです(もちろん、もっと複雑な原因の場合もあります)。

つまり、子どもより人生経験がある親や先生は、
子どもたちが争う視点ではなく、それより高い視点で物事を観ることができるからです。

つまり第三者的な、客観的な、俯瞰した視点で判断できるってことですね(もちろん、全ての大人がそうとは言い切れませんが)。
 

で、何が言いたいかというと、歴史の場合はそうもいかないってことなんですよね。

つまり、勝った側が負けた側より圧倒的に影響力を持つことができるからです。

そして、その影響力で民(一般大衆)をコントロールすることができるからです。
 

「歴史は勝者によって作られる」
と言われますしね。

でも、この言葉も必ずしも的を射ているとは言い難いのかなって。

正統な歴史書VS古史古伝(偽書)という視点ではない視点

例えば、日本では日本書紀や古事記が正統な歴史書だという認識があります。

で、その内容と相いれないものは「古史古伝」という位置づけに置かれています。
 

「古史古伝」というのは柔らかい表現ですが、もっとストレートに言うと、
歴史学界では認められていない「偽書」なのだと。

知ってましたか?
 

僕はホツマツタヱを知るまで、そして学ぶようになるまでそんなこと全く知りませんでした。

竹内文書、先代旧事本紀、宮下文書、ウエツフミなど(もっとたくさんありますが)
日本にはたくさんの歴史書が存在します。

が、多くの場合、その存在自体を知らない人が多いです。
 

で、僕がこのようなことを書くと、正史(例えば、この場合、日本書紀と古事記)VS古史古伝(偽書)という図式があって、

「正史を作った人が自分たちの主張を正当化するために古史古伝(偽書)という位置づけを作ったんだ」
と思う人がいるかもしれません。
 

もちろん「その要素はある」と僕も思います。

ただ、先程も書いたように歴史って、どの角度、どの抽象度で観るのかによって全然違うんですよね。
 

僕たちは歴史を学ぶとき、当然、現在から過去という視点で物事を観ます。

そして、すでに過去の出来事なので、より客観的に観ることもできます。
 

ただ、当時の人たちがどのような状況だったのかを臨場感を持って実感することはできません。

当たり前ですが、その時代を生きていないので。
 

僕はどの書物が絶対的に正しいのかという視点で観ている限り、
歴史の全体性は捉えられないって思っています。

なぜなら、言葉というのは物凄い限界があるものだからです。
 

これが分かってくると、
「ただの視点の違いなんだ」
ということが理解できるようになります。
 

そして、今の僕が感じているのは、
敢えて、真実と嘘という分け方をするのなら、
真実も嘘もまるごと全部受け入れる必要があるのかなってことです。

なぜなら、過去において何かを戦わせている限り、
その戦いの延長線上の未来が創られていくから。

陰と陽、まるごと全部受け入れる度量が必要かなって思います(もちろん、カンタンなことではないですが)。
 

正史と呼ばれている歴史書にも、
古史古伝(偽書)と呼ばれている歴史書にも、

歴史という全体性を知るピース(断片)が散りばめられていて、
複合的、立体的に捉えることが必要なのではないのかな、と。

そもそも、正史とか古史古伝(偽書)という区分は後の人たちが付けたもので、
それすらも絶対的ではないということです。


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