神社にある「なにか」を求めて

神社って不思議な空間だなって、つくづく思います。

一般的には「神様にお願い(祈願)をするところ」という認識がありますよね。

でも、それだけではない‟なにか”を多くの人たちは感じているのではないでしょうか?
 

その‟なにか”を感じる度合いの深さは人によって違うとは思います。

でも、神様や神話のことを詳しく知らなくても、連綿と受け継がれてきた神社という場にある‟なにか”を日本人は感覚的に知っているのではないか、と。
 

いや、日本人だけではなく、日本人的な感覚に共鳴する海外の人たちもまた同じように。

日本を訪れる海外の人たちが神社仏閣に興味を持つのはなぜなのでしょう?

そこには宗教を超えた‟なにか”を感じているのかもしれません。

その‟なにか”を求めて、今日もまた全国各地の神社の鳥居をくぐり、静かに手を合わせるたくさんの人たちがいます。

あなたにとって最も身近な神社や神様は?

僕にとって馴染みが深い神様が御二柱いらっしゃいます。

須佐男命(スサノオノミコト)と猿田彦毘古神(サルタヒコノカミ)です。

何故、馴染みが深いのかというと、産土神社と氏神神社にお祀りされているから。
 

あっ、ちなみに産土神社とは自分が生まれた土地をお守りしてくださっている神様をお祀りしているところです。

厳密には、その土地をお守りしてくださっている神様なので、御祭神とは、ちょっと意味合いが違います。

ただ、自分が生まれた土地をお守りしてくださっている神様をお祀りしている神社の御祭神となられているということは、少なからずご縁があるのかなって思うのです。
 

氏神神社は、たぶん、ほとんどの人がご存知ですよね。

「初詣には氏神様へ」
って言われますし、実際に普段あまり興味がない人も「初詣くらいは」と足を運ばれる人も多いのではないのでしょうか?

まあ、この氏神神社(氏神様)というのも厳密に言うと、昔と今では意味合いが違ってきてますが。
 

取り敢えず、産土神社も氏神神社も自分に馴染みがあって、もっとも身近な神社であり、神様でもあるってことですね。

だから、パワースポットと呼ばれる有名な神社に行くこともいいのですが、まずは自分にとって最も身近な神社に意識を向けてみることは大切だなって思います。

神社の現状とこれから

日本には現在、約8万社の神社があると言われていますが、そのうち神職に携わっているのは2万人くらいだと言われているのをご存知ですか?

掛け持ちで神社を管理していらっしゃる方もいますし、神社を維持する難しさはいろいろあるようです。
 

神社によっては
「誰も管理してないんじゃないか?」
というくらいひっそりと寂れてしまっている場所も。

たまにそういう神社を見かけると、なんだか痛いけな気持ちになったりします。
 

神社やそこにお祀りされている神様は古来より、その地域の人と共にあり、日本人の日常に寄り添うように存在していました。

現在は寂れてしまったような神社も、昔はさまざまな人が手を合わせ、神様との交流を深めていたはず。

そう思うと、余計に荒れたてた境内が物悲しく映ったり。
 

今、時代も大きく変わろうとしている節目ですが、神社の在り方もこれから変わってくるのではないかなと思います。

そもそも、日本人にとっての神社とは?

神社って、そのベースは神道(この言葉自体は明治になってからできたものですが)という古来より日本人が持っていた精神性をもとに成り立っていて、他の国にはないような独自性があります。

他の国の神様(宗教)には教義(決まりごと)があって、それに乗っとっていますが、ないんですよね、神道には。
 

良い意味で、神様と人の垣根が低いです。

だって誰でも鳥居をくぐって、気軽に手を合わせられるじゃないですか。
 

だから、神道は厳密には宗教ではないという見方もあります。

そこにある世界観、精神性って、森羅万象、ありとあらゆるものに「神」なる存在を見出し、感謝と敬意を表すというものです。
 

捉え所がないようでいて、凛(りん)としたものもあり、静寂な清らかさがあるんですよね。

だから、神社にもそういう凛とした感じだったり、心が落ち着くような静寂さ、清らかさがあります。
 

でも、これも古来より、そこに住んでいる人たちや、参拝する人たちの神様に対する感謝やありがたいという気持ちがあってこそ、保たれてきたことだと思います。

神社の聖域は神様とそこに携わる地域の人や訪れる人によって保たれるのではないか、と。

そもそも神社に行くのは何のため?

「神社はお願いするところ」というのが、なんとなく一般的な認識にありますが、実際は神様と人との間に信頼関係を深めるところだと僕は思っています。

神様とのご縁、一体感を深めるみたいな。
 

拝殿には鏡がありますよね?

これは自分自身(お参りしている人)を映し出していて、「鏡(かがみ)」の真ん中の文字「が(我)」をとって「神(かみ)」になる、とも言われています。
 

「えっ?私が神?」思った方もいるかもしれません。

でも、これ日本人的な、森羅万象、ありとあらゆるところに「神」を見出すという感覚からしたら、不思議でもないのかなって。

ありとあらゆるところだから、当然、僕たち自身の中にも「神」なる要素はあるってことです。

日本人にとっての「神」とは?

そもそも、日本人の「神」と西洋(一神教)でいうところの「God」って概念としてイコールではないんですよね。

古事記、日本書紀で記されている神様方は、完全無比な存在ではありません。
 

むしろ、人間味にあふれています。

そこには、問題や事件があり、失敗や挫折があるという僕たちの人生にも当てはまることがたくさんあるんですよね。
 

もちろん、起こる出来事自体は現代とは違いますが、神話という物語によって示唆されるエッセンス(本質)は、学ぶべきことがたくさんあるなあって思います。

古事記や日本書紀など神話の世界は難しい?

とはいえ、古事記、日本書紀って、かなり難しいイメージありませんか?

神様の御名前は長いし、たくさん出てくるし(笑)

正直、表面上だけで読むと、おとぎ話みたいでピンとこない、みたいな。
 

僕が最初、古事記や日本書紀を読もうとしたときは、まさにそんな感じでした。

だから、途中で読むのをやめてしまったんですよね。

「う~ん、全然分からないし、ピンとこないなあ」って(笑)

これは僕の理解力、認識力のなさによるものだったのですが、少なくともその当時はそう感じていたのです。
 

でも、ホツマツタヱに出会ってから、逆に、
「古事記や日本書紀では、どのように書かれているんだろう?」
と調べるようになり、興味を持つようになりました。
 

神社は神話の世界とは切っても切り離せないもの。

だから、神話を知ると神社に対する興味はもっと深まってきます。
 

最近では、「こんなに丁寧に、丹念に読み解いているのもあるんだ!」というものや、「えっ、こんな解釈もあるんだ!」という古事記や日本書紀の書物に出会ったり。

とはいっても、僕の中ではやはりホツマツタヱは特別な存在なんですよね(絶対視はしていませんが)。
 

いろいろと学んできて、今の僕の中ではホツマツタヱも古事記も日本書紀も表現の違いこそあれ、対立ではなく、共存しています。

ホツマツタヱだけではなく、古事記や日本書紀についても、もっと理解を深めたいなって。

いろいろと好奇心がそそられて、なんだか楽しみだなって思う今日この頃です。
 

ホツマツタヱにせよ、古事記、日本書紀にせよ、もちろん、その他の歴史書にせよ、あなたがピンとくるものから古の叡智や壮大な物語に触れてみてはいかがでしょうか?

きっと、神社や神様、自分の人生に対する意識が変わってくるのではないかなって思います。
 

P.S.この記事は『神社にある「なにか」を求めて』というタイトルで書いてきましたが、この「なにか」については、またいずれ詳しく書いてみますね。


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