脚色されていない言葉なんて存在しない

日常、当たり前のように何気なく使っているからこそ、
あまりそれについて深く考えないものってあったりします。

例えば、「言葉」なんてまさにそうかなって。

話す、読む、書く。

意志の疎通、伝達、コミュニケーション、、、

「言葉」は、人と人を繋ぐための大切な要素として
様々な国で、様々な言語で、発達、発展してきました。

言わば、人と人とを繋ぐ生命線、欠かせないものとして。

でも、それ故に、言葉に対して”絶対的な信頼感”のようなものが生まれ、
その影響力に翻弄されてしまう、、、

なんてこともあったりします。

この地球上で人と人が日々の生活を営む上で、人生を生きる上で欠かせないもの。

だからこそ、そんな”絶対的な信頼感”のようなものが生まれるのでしょう。

でも、冷静に、そして、ちょっと客観的に考えれば、
言葉に”絶対的な信頼感”を置くのはムリがあるかなって気づきます。

僕たちはいつしか”言葉に対する万能感”のようなものをもつようになり、
それによって様々な誤解を生んだり、問題を起こし、思い悩んだり、、、

でも、それって、なぜそうなるの?

っていうことを書いてみたいと思います。

「人と人は言葉で分かり合える」という幻想

世界中にはたくさんの言語がありますよね。

で、当たり前ですが、違う言語同士では通じません。

日本語を話す人と英語を話す人も、
スペイン語と中国語を話す人も。

じゃあ、同じ言語を話す人は?

「もちろん、通じ合えますよ!」
って思うかもしれません。

もちろん、日本語と英語のように違う言語で話すのと比べると、
会話としては成り立っているようには見えます。

ただ、「本当に意思の疎通が出来ているのか?」

というと、どうでしょう?

ちょっと怪しくないですか?

「そりゃあ、分かり合える人もいれば、分かり合えない人もいますよね」
と多くの人は思うのではないでしょうか。

そう、確かに、価値観が合う人、合わない人っていますよね。

じゃあ、価値観が合う人、例えば、仲の良い友達だったら、
意志の疎通が100%可能なのでしょうか?

「私はツーカーと呼べるほどの大親友がいるので!」
と自信満々の人もいるかもしれません。

例えば、
洋服の趣味があったり、
好きな音楽、
好きな映画、
好きな本、
食べ物の好き嫌い、
などが同じだったり、と。

でも、です(しつこいですか? 笑)。

例えばですが、
好きな本の中でも、
どのシーンが一番響いたとかは違ってたりする場合はありませんか?

仮に、同じシーンが響いたとしても、
それを”言葉で表現”した場合、違う”言葉”や”表現”になるのではないでしょうか。

「あの生き別れになった兄妹が再会するシーンに感動した!」
「うん、うん、そう、あのシーン良かったよねぇ!」

一見、意志の疎通は取れているように思いますが、100%ではないですよね。

なぜなら、「兄妹」や「再会」「感動」という言葉に含まれている情報がお互い違うからです。

もっと分かりやすく言うと、「兄妹」「再会」「感動」という単語を見て、連想するイメージが違うからです。

特に本の場合は映像があるわけではないので、お互い過去に体験した(見聞きした)記憶をもとにその単語に含まれている情報(イメージ)を捉えています。

そう、”言葉に含まれている情報”って過去の記憶によってカタチ作られているんです。

ということはです。

言葉で100%意志の疎通を図ることは不可能だってことになります。

まあ、「そんなに細かいこと言わなくても、話が通じればいいじゃない」
って思う人もいるでしょうが(笑)

でも、です。

”通じているようで通じていない”
という微妙な認識のズレが思わぬ誤解を生んだり、
ときには争いに発展することだってあります。

で、それだけじゃなく、言葉ってその人の視点によって切り取られた
一部分を表すことしかできないものなんですよね。

脚色されていない言葉は存在しない

例えば、歴史について書かれた本ってたくさんありますよね?

歴史書と呼ばれる古来から伝わっているものから、
それについて書かれたものだったり、歴史小説だったり。

解釈も表現も人それぞれ。
特に小説は著者の脚色がかなり反映されます。

例えば、徳川家康が好意的に書かれているものもあれば、
憎たらしいったらありゃしないっていう感じで書かれているものもあります。

時代劇で定番の赤穂浪士は、吉良上野介は悪者というのが定番ですが、
本当にそうなのでしょうか?

歴史で悪者とされている人たちは、本当に悪者なのでしょうか?

「いや、だって、そう書かれているじゃないですか?」
っていう人は意外と多いのではないでしょうか。

「書物にそう書かれているから正しい」

人はどこかで書物に対して強い信頼感を寄せます。
それが権威ある教授が書いたものだったりすればなおさらですよね。

そもそも、なぜ人は書くのでしょう?
書物というカタチあるものを作るのでしょう?

例えば、歴史だったら、
「後世に伝えるため」
という理由が考えられます。

でも、そもそも歴史って様々な人たちが関わっています。

例えば、歴史で大きく取り上げられるのは戦争、戦ですよね。

となると当然、その戦に関わった当事者、朝廷や武士などがクローズアップされます。

でも、商人や農民など、同じ時代にはそれ以外に様々な人たちがいます。

彼らが歴史に関わっていないかというと、そんなことはないですよね?

じゃあ、なんで朝廷や武士の話ばかりが小説に書かれたり、ドラマになったりするのでしょう?

答えは単純で、その時代に書物に残せるのは、ごくごく1部の人だったから。

公家とか武士ですね。

日本の江戸時代の識字率は世界の中でもかなり高かったという話があります。

だからといって、今みたいにSNSで気軽に発信!というわけにはいきません(笑)

そもそも誰でも自由に書きたいことを書いていいなんて、長い歴史から見たら、
つい最近のことと言ってもいいくらいです。

僕たちはなんて恵まれているのでしょう(笑)

で、何が言いたいかと言うと、
僕たちが歴史として認識しているもの、
学校で習ったりしているものって、
歴史に関わった全体のごく1部の人たちの視点で
切り取ったことが反映されているものだということです。

そして、人が何かを書くとき、必ずと言っていいほど、
「何を書くか」
「何を書かないか」
という選択を意識上で絶えず行っています。

この選択はその人の”価値観”や”人生観”などによって
優先順位が変わってきます。

つまり、”価値観”や”人生観”という色眼鏡によって選択されたことが
文字によって記され、書物に残るということです。

まあ、歴史書の場合、政治的な意図というものも反映されることもありますよね。

人が何かを書くとき、もしくは話すとき、
”起こった出来事”を自身の視点によって切り取ったことを表現します。

でも、そこに書かれたことは、全体のある1部であって、絶対的な真実ではないんですよね。

脚色というとフィクション(作り話)になっちゃいますが、
言葉にした時点で、その人の視点という色眼鏡(価値観、人生観、優先順位)で切り取ったものになるということは、これを脚色と呼んでも遜色はないのかなあって思います。

そう、脚色されていない言葉なんて存在しないんです。

つまり、地球上に78億人の人がいれば、78億人の視点があり、
78億人が何らかのカタチで書いたり、話したとしたら、、、

78億人分の脚色された事実が存在することになるということです。

でも、世の中って、絶対的な真実があり、「これが答えだ!」という情報操作をします。

◎答えは1つだけしかない。
◎答えは1つだけじゃない。

文字にすれば、2文字しか違いませんが、
どちらを選択するかで、様々な出来事の見方や、または人生そのものが変わってくるのではないかなって思います。

あなたはどちらを選択しますか?

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